ちゃんと

ここ1年くらいはもっぱら出勤していて、先日久しぶりに午前を在宅勤務にする機会があった。

会社にいる時は、大体お昼の時間も打ち合わせが入ってくるので、ビル下のキッチンカーで弁当を買って合間の数分で食べたり、席で食べながら会議に出たりと、なかなか慌ただしいのだが、その日はお昼の前後に予定も入っておらず、午後はゆっくり会社に行けばいいことになっていたので、これはチャンスだと思い、午前中の仕事を早々に切り上げ、家から徒歩5分程度の近所の定食屋に行くことにした。

そこはカウンター5席程度にテーブルが4つ程度とこじんまりしたお店で、女性ふたりで切り盛りしている。常時10種類くらいのメインのメニューがあり、それに味噌汁、漬物の小鉢がつく。やさしい味付けで量もほどよく、行く度にほっとする定食屋だ。在宅勤務の多かったコロナ禍には、週に1,2回は通っていたように思う。

12時前に入れば、カウンター席はひとつを残して全部埋まっていた。空いている席に腰をおろして、ポケットからスマホをふたつ(会社用とプライベート用)を取り出し、テーブルの隅に置く。頭上にはラジオが小さく流れている。チャンネルもきっといつもの通りだ。メニューを手に取れば、以前と同じ内容が並んでいる。家を出てから店に来るまでの間に既に食べるものは決めていた。煮込みハンバーグ定食に目玉焼きをつけて注文した。

そこまで済ませて会社のスマホに手が伸びる。店に来るまでの数分の間に、チャットもメールも数件ずつ来ている。すぐに返信が必要なチャットを返すとふっと力が抜けたような感覚になった。そういえば、と通勤用のリュックの中に入れっぱなしの本のことを思い出した。数ヶ月前に買った新書で、通勤中に読もうと思ってリュックに入れたものの、通勤中に本を読む元気がないのか、ほとんど読み進められていられずにいたのだ。ふとそのことを思い出し、リュックから本を取り出し開くことにした。

読み進めて10分程度経った頃、目当ての煮込みハンバーグ定食がお盆に載せられて手元にやってきた。いつも通りまずは味噌汁を一口すする。「ほぉ」と思わずお風呂に浸かった時のような声が漏れた。僕自身グルメではまったくないので、この味噌汁を評価する口は持ってない。いないけれど、その味噌汁を一口飲んだ時に「ちゃんとしている」と思った。

何がちゃんとしているのか。ちゃんとしているご飯はどんなもので、ちゃんとしていないご飯がどんなものなのか、うまく言葉にはできそうもないのだけれど、「美味しい」ではなく「ちゃんとしている」としか表現できるものがなかった。

普段のお昼ご飯なら、会社の携帯を片手に忙しなく流しこむように食べてしまうのだけれど、この定食は不思議とゆっくり箸が伸びる。何より、少しずつ口に運ぶように食べている間、一度も会社のスマホを取り出さなかった。小ぶりな小鉢に入った漬物も、つけ合わせのサラダもドレッシングも、全ての料理がちゃんとしていた。

食べ終えた時には、じんわりと額に汗をかいていた。会計を済ませ、店を出れば午後の光が眩しく、今が秋であることを知らせてくれる。食事後の心地いい気だるさが全身を覆う。それは本当に久しぶりの感覚だった。

「ちゃんとしている」ってなんだろう。秋の日差しが差し込む電車で少し眠くなりながら思った。そもそも「ちゃんと」ってどういう意味だ。

AIに「ちゃんと」の語源を尋ねれば、諸説あるらしいが「ちょうど」という意味合いらしいことが書いてある。そう言われれば、たしかにさっきの食事は「ちょうどいい」と呼べるものだったようにも思う。思わずお風呂に入った時に出るような声が出るほどの安心感のようなもの、すべての食事が丁寧に時間をかけられて作られた(であろう)感じ。それでいて「どうだ、美味しいだろう」と決して主張はしてこないあの感じは、まさに「ちょうどいい」と言える。でもその「ちょうどよさ」ってどういう物差しなんだろう。

そこまで考えていたら、「ちゃんとしてよ」と相手に幾分強く詰る時に使う言葉でもあることに気が付いた。語源に照らし合わせれば「ちょうどよくしてよ」ということになる。それはそれでなんとも自分勝手な匂いがする言葉だ。私の機嫌や言いたいことに気がついて、先回りして気持ちよくしてよ、という要望が垣間見れる物言いだ。言われた方はたまったもんじゃないな、と思いながら、結構使っていることに気付く。

さすがに相手を目の前にして「ちゃんとして」と言うことはない(と信じたい)が、ふとした会話で「あの人、もっとちゃんとしてほしいよねぇ」などとこぼすことはあったように思う。いや、あった。自分のやり方と合わない人を指して、誰かに愚痴るように言った気がする。

さらに言えば、3歳の娘に対しては直接「ちゃんとして」と苛立って言ったこともあったように思う。自分でなんでもしたい年頃の(イヤイヤ期の)娘の、心許ない挙動を見かねて、つい我慢ができずにそう声を強めたことがあった気がする。恥ずかしいことだ。師走というこのタイミングで、いっそその事実ごと忘年したい。

なんとも自分本位なニュアンスの強い「ちゃんと」だが、それはつまりは自分の中で積み上げてきたものから出てきた言葉でもある。件の定食屋の「ちゃんと」も、これまで自分が食べてきたものを無意識のうちに比べてそう口にしたわけだし、仕事で「ちゃんとして」と言っているのも、これまでいろんな人と仕事をして、多くの仕事ぶりを並べた上での、自分なりの「ちゃんと」の尺度である。

当然ながら10年前と10年後の「ちゃんと」の具合にはグラデーションが出てしかるべきだし、他人が言う「ちゃんと」は僕と同じではないわけだ。きわめて個人的な言葉である。であるが故、その「ちゃんと」はちゃんとしていたい、とも思う。「ちゃんと」を積み上げるだけの所作を繰り返していかねば、とも。

でも、この1年を振り返ると少し自信が持てない。

仕事では組織や仕組みを拵える側にまわり、いろんな方面に目を配りながら適切な落とし所を探すといったようなことをやり続けてきた1年だった。AIを利用する頻度もあがり、これまで首をひねりながらも悩み抜いていたことも、いわばAIに「外注」できるようになった。それがまた精度が良いようにも見えてしまうから、仕事を進める分には楽になった。ただ自分の目や耳を経由して考えることが減った分、大袈裟なことを言えば昨日書いた資料の内容を思い出せない、といったようなことが起きている。

SNSを開けば、これまでの自分の行動履歴を判別して、おおよそ似通った情報が流れてくる。それをクリックするほどに情報は偏っていき、その偏っていることが自分でもわかるほどなのだけれど、その偏りから距離をとり、外に目を向けるような余裕もない。そんなことだから、自分の価値観が揺さぶられるようなことも減った。アートも映画も小説もほとんど触れていない。きわめつけはお昼ご飯の時間もちゃんととれずに毎日同じようなものを数分で食べている。

自分という存在がどんどん薄まっていくような、のぺっと平にならされるような、そんな感覚がぼんやりとずっとある。そんな1年だった。

「ちゃんと」をちゃんと積み上げていく必要がある。個人的なことを取り戻す必要がある。

来年はできるだろうか。わからない。自信はない。
まずは年末年始をちゃんと過ごそう。酒を飲み、人と話し、自分の目と耳で感じ取ろう。

みなさん、良いお年を。

文・写真:Takapi