
先日娘とはじめてディズニーランドに行った。僕自身もかれこれ20年振りくらいで、そもそも1回か2回くらいしか行ってないほどには「夢の国」とは縁遠い人生を歩んできた。
あの場所が嫌いということではない。なんとなく距離を置いておきたい場所というのは誰しもあって、僕にとってそれがディズニーランドであるというだけだ。理由を話せば長くなりそうだし、そもそもうまく話せそうにない。
それはそれとして、娘も3歳になりいろんなものを見せていくのは親のつとめであり、そのひとつにディズニーランドは当然候補に上がることになる。そんな訳でディズニーランドに行くことになった(なんともまどろっこしい書き出しだ)。
ディズニーランドの入門編として娘も楽しめるアトラクションは「イッツ・ア・スモールワールド」であろうという妻の意見に従い、はじめに向かうことになった。
不思議と「イッツ・ア・スモールワールド」のことは憶えていた。5分近い乗船中ずっとお馴染みの歌が流れ続けることもあるけれど、その歌詞とアトラクション自体の世界観が「夢の国」の中においては、あまりにリアリティがありメッセージ的であったからだ。
世界中どこだって
笑いあり 涙あり
みんなそれぞれ助け合う
小さな世界
世界はせまい
世界はおなじ
世界はまるい
ただひとつ
歌詞だけ見ると、ジョン・レノンの歌だと言われても疑わないかもしれない。それだけジョン・レノン的なメッセージだ(個人的に、いつもこの歌を聴くと「Happy Christmas」を聴きたくなる)。
そんな記憶を傍らに置きながら、ハッピーに彩られた「箱」の中に入っていく。15分待ちということで、するすると箱の中の道を船まで進む。前に並んでいるのはおそらく東南アジアからの旅行客で高校生くらいだろうか。友達数人とスマホで写真を撮りながら楽しそうに話している。
娘ははじめて入る本格的なアトラクションの雰囲気にちょっとたじろいでいるのか、あまりの人数の多さに腰が引けているのか、握った手をずっと離さない。ただ、それもはじめだけで圧倒的に無害で平和な「箱」の雰囲気に徐々に慣れ、見つけたオブジェを指差しては当てっこゲームのようにモノの名前を連呼していた。
10分程度ゆっくり進んだ後、いよいよ出航の出番が来た。船が到着すると、娘は僕の手を振り解き自ら先に乗船し、手招きする余裕を見せる。娘の隣に座りいざ出航となった。
入口を潜り抜けるとすぐに開けた世界に出る。そこに突如飛び込んできた無垢な子どもらの歌声と、民族衣装に身を包み朗らかに踊る人形たち。その光景を目の当たりにしたほんの数秒後、不意に鼻の奥がツンとする感覚に襲われた。ほぼ反射的な反応で、自分でもこの身体の反応に驚いた。
端的に言って感動したのだろうが、その理由がわからない。子どものピュアな歌声を聴いたからなのか、それともやたらとメッセージ性の高い歌詞だからなのか、直前に異国の楽しげな若者を見たからなのか、今もなお世界中で続く悲劇が頭に浮かんだからなのか。正直わからない。どれもありえるし、どれでもないようにも思えた。こみあがったものの理由を探そうと、目尻にたまった涙を指で拭いながら、後付けのように頭の中をそれらが駆け巡っていった。
気を取り直して隣の娘の様子を伺えば、はじめて経験するアトラクションに興奮気味だ。彼女の目に映る世界はせまいのだろうか?広いのだろうか?どちらなんだろうか?娘にはこの「世界」はどう映っているのだろう?と思った。
いや、そういうことではないな、と思い直した。せまい、ひろい、ちがう、おなじ、の二元論はどうでもよくて、ただただ彼女にとって世界は「大丈夫な場所」だと思ってもらいたい。そして、そういう世界を見せ続けなくてはいけない、と思った。気付けば娘の手を握っていた。
数日後、ディズニーランドで何が一番楽しかった?と聞けば、「なんかみんなで楽しそうに歌ってたやつ」と言っていた。きっと「小さな世界」のことだろう。その感想に力が抜けたが、そのくらいの感想でいいんだよな、とも思った。

夢の国から1週間後の週末、娘と二人で近所のマクドナルドへ昼ごはんを食べに行った。外はあいにくの雪だが、「夢の国」で買ったキャラクターの傘を使えると、娘は上機嫌でマクドナルドへ向かった。
雪が降っているからか、店内は比較的空いていて、すぐに席につくことができた。
娘はお決まりのセットをオーダーする。最近はハッピーセットにサラダに枝豆コーンを頼む。食べすぎだろうと思うが、野菜を食べてくれるからまぁいいかと納得している。
トレーいっぱいの料理をもって席につく。少しして、甲高い声に気づく。男性の店員さんが「ありがとうございましたっ」「雪ですのでお気をつけてお帰りくださいっ」と大袈裟すぎるくらい腰を折って挨拶をしていた。
挨拶を終えると、小気味よくさっきまでお客さんがいた席をササッと布巾で拭き、床にこぼれたものを見つけたのか、バックオフィスに踵を返すやいなや、箒とちりとりを持って、一瞬で床を綺麗にして、またフロアの片隅に陣取って、にこやかに立っている。
過剰だ。今のご時世なら眉を顰める人もいるのではないかと不安になるくらいには過剰だ。
ただその姿になんとも言えない一生懸命さを感じて惚けるように眺めてしまう。娘も「お兄さん」が気になるのかぼんやり眺めている。あの所作はまるで1週間前のディズニーランドのスタッフではないかと思い始めたのも束の間、突然お兄さんが席にやってきては、娘の目線に合わせて腰を折り、「ポテトにケチャップはいるかな?」と声をかけてきた。
マクドナルドでこんな風に声をかけてもらうことははじめで、僕自身少し緊張してしまった。人見知りの娘は僕以上に緊張して応えられずにかたまってしまっていた。僕が娘に「もらおうかね?」と問えば小さく頷くのでありがたくもらうことにした。
お兄さんが席から離れてから、娘も肩の力が抜けたのか、ケチャップを盛大につけてポテトを頬張る。「家だとケチャップつけるもんね!」と嬉しそうだ。
娘の顔を眺めながら、お兄さんとのやりとりを思い出していたら、なんだかとても嬉しくなってきてつい目頭が熱くなってしまった。彼はおそらくお店の教育通りにこなしているだけなのだろう。一人一人に声をかけ、腰を90度折って挨拶をする。気になる汚れがあれば掃除する。小さい子がいればサービスをする。ただそれだけなのだが、そのあまりに実直な振る舞いになぜか泣きそうになってしまったのだ。
ありがたいな、そう思ったら先日行った自転車屋さんのことを思い出した。

その自転車屋さんは、この町に引っ越してきた5年前に、僕と妻が買ったお店で、そろそろ娘にも自転車を与えようと、久しぶりに行ったのだった。
そのお店は納車すると、店主の心意気で、記念に写真を撮ってはお店のInstagramに上げてくれる。数年前、妻と買った時も同様に写真を撮ってInstagramに上げてくれていた。
娘の自転車の納車の日も、いつかと同様にカメラを構えてくれた。人見知りを爆発させた娘はカメラに背を向けて妻にしがみついていたが、それはそれでいい思い出だということで、そのままシャッターを切ってもらった。
後日Instagramにアップされたのを見つけた。見れば僕らの5年前の写真とセットでInstagramに載せられていた。店主の言葉には「ながくやってると、こういう事があるからたまんないっすね。こんな日は、道具の手入れをしながら、しみじみと(ビールジョッキの絵文字)」という言葉が添えてあった。
頻繁に行くお店ではないのに、律儀に5年前のことを憶えていたことも嬉しかったが、「遠くて近い人たち」が僕らの「小さな世界」にいるという安心にも似た温かさを感じた。そのありがたさを感じながら「いいね」を押した。
目線を戻せば、娘はサラダをモグモグと食べている。
するとまたお兄さんがやってきて声をかけてくる。
「えらいね。僕のこどもは全然食べてくれません」とはにかむ。子どもがいることに少し驚いたが、「うちはいつもこのセットなんですよねぇ」と応える。
その様子を見ながら娘が緊張しながらも小さく微笑む。
その表情を見たら、この「小さな世界」はまだ大丈夫かもしれない、と思えた。このまま「小さな世界」が壊れないでいてほしい、とも。
文・写真:Takapi
