遅めの夏休みをもらい、9月終わりから1週間ほどクロアチアのザグレブとドイツのミュンヘン、フランクフルトを旅行してきた。
「滝を見たい」のパートナーの一言で、クロアチアの自然公園ツアーに申し込んだのは旅立つ2日前。既に日本語ガイドのツアーはなく、英語のツアーを申し込むことになった。
僕の英語力は中学校1年生で止まっている。そのためツアー中ガイドの話すことの8割は理解ができなかった(いや、正直に言えば9割くらいわからなかった)。
参加者は7名で、当たり前だけど皆英語を「普通に」に話す。僕らは借りてきた猫のように大人しくツアーの最後尾について参加することになった。
自然公園をしばしトレッキングし雄大な滝にたどり着くと、皆が一様にスマホを取り出し撮影タイムを始めた。僕もならってカメラを構えていたら、オーストラリアから来たという若い女性に「写真、撮るわよ」と笑顔で声をかけられた。
「ありがとう」とスマホを彼女に渡し、僕ら夫婦は並んで滝を背景にして写真を撮ってもらった。撮影したスマホを返してもらうときに「ありがとう」と声をかければ「なんでもないことよ」というニュアンスの笑顔を見せてくれた(欧米の方はそうゆう表情が特に上手な気がする)。
ほんの数秒のやりとりだ。彼女は少しの親切心から、言葉の「通じない」僕らに声をかけてくれたに過ぎない。とは言え、言葉の通じない相手に向かって「なんでもないこと」と手を差し伸べてくれたささやかな思いやりに僕はしばらくほくほくとした気分になれた。
その後も、イギリスから来たというキヤノンの一眼を掲げたお兄ちゃんが、僕のミラーレスカメラを指差して「良いね」(その後なにかカメラについて話してくれたがほとんど分からずニコニコして返すことしかできなかったけど)と話しかけてくれた。
いつもそうなのだけど、海外の旅を振り返るときにまず頭に浮かぶものは、美味しいご飯でも綺麗な景色でもなく、言葉の通じない人とのささやかなやりとりだったりする。
そんな風景を思い返す度に、今自分がどれだけ「狭くて広い」世界に生きているかを教えてもらったような気分になる。
狭くて広い。
日本語として破綻していることを言っているのは自分でもわかっている。でもそう感じるのだ。「あぁ、世界は狭くて広いな」と。
今回の旅行でドイツを選んだ一番の理由は本場の「オクトーバーフェスト」に参加することだった。約2週間の開催期間中に700万人が訪れるという世界的なビッグイベントがどんな空間なのかをこの目で確かめたかったのだ。
イベントそのものの感想はここでは文字数を使うため書かないけれど、簡単に説明すると、そこは想像を遥かに超える巨大な「エンターテインメントパーク」であり、そして大学の新歓コンパのようにそこかしこで割れんばかりの嬌声が響き、したたか酔った男女の恋が始まるという、まぁ、とんでもなく平和で賑やかな祭典である。
言葉の代わりに写真を並べるので、なんとなく感じ取って欲しい。
会場内のほとんどの人たちが陽気に酔っ払ってゲラゲラと笑っている。そんな夢のような場所にちょっとだけ参加させてもらって、控えめに言ってもものすごく楽しかった。どのくらい楽しかったかと言うと、普段なら絶対に乗らない空中ブランコにも乗るくらいには楽しかった。
さて、会場に戻る。僕らはビールが飲めそうな場所を探すために広い会場をひた歩いていた。10分位歩いていると、長テーブルのひとつが空いているのを見つけることができた。隣のテーブルで盛り上がっている酔ったお兄さんに「空いてる?」と僕は聞いた。
その兄さんは振り返り、僕らを認めると「おお!中国人?」と聞いた。「いや、日本人だよ」と答えると「 Oh!NAGATOMO!」(サッカーは世界共通語)と肩を叩かれた。それからしばらく彼は「ドラゴンボールが好き」「大阪が好き」と一方的に日本を褒めちぎっては、周りに座る彼の友人たちに「おい!彼ら日本人だぞ!」と興奮した様子で声をかけた(仲間は「へぇ」みたいなリアクションだった)。
一通り話し終えると、僕がぶら下げていたカメラを指差し「俺たちを撮ってくれよ!」と言った。
ここで写真を撮ったところで君にこの写真はあげられないんだけどなぁ、と思ったけれど、とりあえず「オッケー!」と言って僕は写真を撮った。撮った写真をモニターに映し彼に見せると「good,good!」と満足気だった。
ここにも「通じない」関係のあたたかいやりとりがあった。僕らはそこで一杯飲み(ここでの一杯は1リットルだ)席を離れることにした。それからまた広い会場内を歩いていると、今度は泥酔間近のカップルに声をかけられた。
すれ違いざまに「ねぇ。俺ら今日カップルになったんだよ!写真撮ってくれよ!」と男性からせがまれる。だんだん僕自身も楽しくなってきてしまって「おめでとう!」と言いながら何枚もシャッターを切った。
今言葉にしながらこれらのシーンを振り返ってみると少し鼻の奥がツンとしてくる。
彼らにとってすればなんてことのない一時の「ノリ」なのだろう。仮に日本の花見会場に外国人が隣に来たら同じようなことをしている僕自分が容易に想像できる。
ひとつたしかなのは、「通じない」間柄のやりとりは、「通じている」間柄の1/100くらいのやりとりでも、100倍くらいの喜びになることがあるということだ。
旅行の後半、ドイツの名観光地ノイシュバンシュタイン城に行った時のこと。ひとりの日本人のおじさんに声をかけられた。
聞けば彼は65歳で、大企業(誰もが聞いたことなある企業だ)を定年退職し、奥さんとお子さんを日本に置いてひとりで世界一周の旅に出ていると言う。
朗らかで開放感に満ちた表情をしたその方の雰囲気が心地よくて、しばらく歩きながら話すことになった。
世界一周旅行をすることになった経緯を「社会から遠ざかるとさ、ストレスはなくなるんだけどなんかボーッとしちゃうんだよね」と話し、「だからさ、こうして言葉が『通じない』環境に飛び込むことでワクワクを取り戻しているんだよ」と笑った。
また、この年齢になると怖いものも恥もなくなり「知らない土地でわからないことがあればすぐに近くにいる人に聞けるようになる」とのことで、「実際に声をかけまくってわかったのは、9割の人は優しいということだね。ほんとにみんな親切に教えてくれる」と言いながらその9割のやりとりを思い出していたのか、彼はふっと目を細めた。
旅を通して教訓めいたことを言うつもりは毛頭ない。行きたい場所があり、見てみたいものがあればいつでもどこにでも行けばいいし、それがないなら別に旅なんてしなくていい。
ただ、ふだんの暮らしでは出不精の僕が、時折こうして「通じない」場所に身を置きたくなるのはどこかでバランスを取ろうとしているということはたしかだ。
そのバランスのひとつが、今回の旅の中に出てきた「通じない」相手とのやりとりにあるのだと思う。
さて、明日からふだんの暮らしに戻る(このコラムは旅の帰途、トランジットで8時間足止めされているドバイ空港で書いている)。
「通じている」相手との再会を喜びつつ、彼らとのこれからのやりとりの中で、少しでも旅先で得たものが顔を出してくれたら嬉しい。
そんなことを繰り返したくて、僕はまた旅に出るのだと思う。
文・写真:Takapi