わかったつもり

ED1E27A7-FDB4-4E47-95E8-F5C10E734D68「正月太り」以降、一向に体重が減る兆しを見せない。これはしっかり運動をせねばと思い立ち、まずは形から入るべくGARMINの腕時計を買った。

走った距離や歩数、心拍がわかるのはもちろん、睡眠時間やストレス、ボディバッテリーという自身の体力の状況までわかるということで、肌身離さず寝る時も着けるようになった。

毎日データを追いかけているけれど、これがなかなか興味深い。

1日の歩数が少ない日ほど体力が余っているのか深い睡眠の時間が少なかったり、過度なストレスだと思っていた仕事の打ち合わせが「休憩時間」と出たり、リラックスをしていると思っていた料理の時間が高いストレス指数を叩き出したり。

案外自分自身のことが一番わかっていないのかもしれない。弾き出されたデータを通して新しい自分と出会ってるようでなんとも気持ちがいい。

データを通して自分自身の状態がわかってくると、今度はデータを起点にして行動を決めるようになってくる。

先週よりも少し速く走ってみようとか、心拍をより抑えて長く走ってみようとか。さらには走ることだけではなく、睡眠時間があまり取れなかった翌日は早く寝てみたり、ストレス時間が続いているのがわかれば意図的に休憩時間を設けたり。そんな感じでデータが示す「正しさ」に合わせて行動を選択するようになった。

実際この体調管理が実を結び徐々に体重は落ち始めた。
しかしながら、時計を着けてから1か月後に僕は腰を思い切り痛めてしまった。

データを行動の拠り所にし過ぎた結果、腰が悲鳴を上げていることに気付かぬまま走り続け、ついに走っている最中に「グキッ」と痛めたというわけだ。

生まれてこのかた35年強、腰痛とは無縁だったので痛めた時は途方に暮れた。それでもなんとかその翌日も会社には行った。席に着いたもののデスクワークすらままならず、早めに切り上げてクリニックに行くことにした。

行ったクリニックでは専門のカウンセラーが身体を診てくれた。どうやら僕の腰痛は身体の硬さと姿勢の悪さが原因らしい。

言われてみれば、僕は子どもの頃から身体が絶望的に硬く、少年野球をやっていた時も高校生の陸上部時代も重点的に指導されたのは、柔軟体操やストレッチなど身体をほぐすことだった。

姿勢の悪さもよく指摘されていた(言動に伴う「姿勢」のことではない。それはそれで最近よく指摘されるが)。猫背で歩いていると「胸を張れ」と散々言われた。

どうやら突如目の前に現れたデータの「分かりやすさ」に没頭するあまり、普段なら見逃さない兆しへの注意が散漫になっていたようだ。

腰痛の顛末は、「わかりやすさ」の功罪をまざまざと見せつける結果となった。

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猫を飼うことにした。なぜと問われてもわからない。なんとなく、猫が家の中にいたら愉快だろうなぁという予感だけで飼うことを決めた。

ペットショップから連れて帰った日、彼女は怯え切っていた(メスのサイベリアンで名前は「にぼし」という)。写真にあるように、本棚の下のスペースから出てきてくれなかった。

翌日以降は急速に新しい環境にも飼い主にも慣れていった。おかげで、2週間が経った今では朝起きて「にぼし」が住む部屋(空いた部屋をまるまる猫専用の部屋にしている)を開ければ、「ニャー」と僕の脚にまとわりついてくれるまでになったし、放っておけば家中を縦横無尽に走り回るお転婆娘に変わってくれた。一安心だ。

当たり前だけど猫に言葉は通じない。何を考えているかもわからない。猫の本を買って、「この仕草の時はこんな気持ちです!」と言われてもそれが本当かどうかもわからない。

甘えたいのかと思って撫でると嫌がるように逃げたり、遊びたいのだと思っておもちゃをチラつけせてもつれなかったり。それでもだんだん差し出した「世話」が当たってきて、喉をゴロゴロとさせて気の抜けた顔を見せてくれるととても嬉しい。

手を変え品を変え「にぼし」と対峙してみて思うのは、わかることとわからないことを繰り返すことはとても楽しいということだ。そんな「わからないことと向き合う手間」が欲しくて僕は飼い始めたのかもしれない。まぁ、そんな小難しいことを考えるまでもなく、今日も「にぼし」はおそろしくかわいいのだけれど。

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「わかる」はひとつの快楽だ。しかしながら「わかりやすい」は、糖質の高い清涼飲料水のように喉を渇かす中毒性を持つ。

反面「わからない」はストレスだ。それでも「簡単にわかりようがない」という前提に立つことは、好奇心や想像力という生きていく上で必要な筋力を持ち続けることができる、と思っている。

その筋力は本当に途方もなく絶望的な「わからないこと」に出会ったときに、現実に立ち向かわせる唯一の対抗策になる。そして悲しいかな、ほぼ必ずと言っていいほど、どの人にも等しく「わからないこと」は降りかかる。付け加えるならばその「問い」にわかりやすい答えは存在しない。

これからも「わかりやすいモノサシ」はどんどん増えていくだろう。それはそれで歓迎すべきことなのだと思う。けれど気を付けなくてはいけないのは、わかりやすいモノサシに頼り過ぎれば好奇心は細くなり、いずれ思わぬところで怪我をすることがあるということだ。

わかったつもりほど、こわいものはない。
かと言って、わからないと簡単に白旗を上げるのもつまらない。

結局のところ、大切なのは「わかる」と「わからない」を両天秤にかけながらバランスをとり続けることなのかもしれない。

ほら。バランスをとるのって案外筋力がいることだから。

文/写真:Takapi