近所にある鮮魚店に週に1度くらいの頻度で通っている。魚がただただ美味しいというのもあるけれど(切り身はスーパーの2倍くらいの厚みがあってジューシーだし、自家製の塩辛はちょうどいい塩梅で絶品)、それ以上にご機嫌な店主のおじいさんとの数分の会話が楽しいというのが通う理由でもある。
「今日はイサキのバター焼きなんてどう?」
「スーパーの魚がなんであんなに安いか知ってる?」
などと時に料理の先生に、時に経済評論家になって話しかけてくれる。たまに同じ話になることを差し置いても面白い。なにより話の間ずっとニコニコとしているおじいさんを見ているだけでなんだか元気をもらってしまうのだ。
振り返ればもう半年近く通っていることになる鮮魚店だけど、ここ2ヶ月くらいは行けば2回に1回はおまけをくれるようになった。
ふだんは手が伸びないような小さな蒲鉾をニコニコしたままサッと袋に入れてくれたり、「いっぱい食べなさいよ」とブリの切り身をひとつおまけしてくれたりする(ひょっとしたら僕のことを大学生くらいに思っているのかもしれない)。
そんなことがあったからか、スーパーで魚をとんと買わなくなった。時折夜が遅くなってスーパーで魚を買ってしまうと、なんだか悪いような気持ちにすらなってくるから不思議だ。小商の真髄を見ているような気分でもある(大袈裟だけど)。
もうひとつ贔屓にしているお店が近所のコーヒースタンド。かれこれ1年近く我が家のコーヒーはここのコーヒー豆だ。
おそらく僕と年齢が近いであろうカップルが切り盛りしているこのお店は、常に常連さんが顔を出しているような、朗らかな会話が行き来している心地いい空間でもある。当然ながらコーヒーは美味いし、自家製のお菓子も美味しい。
行けば少し会話をする程度だが、そのちょっとした世間話(今日は雨ですねー、先日の『アド街』見ました?)が、在宅勤務続きで結論ありきの会話に浸り切ってしまった身を、束の間現実に引き戻してくれる。
先日行った時は「ちょうど焼き上がったんで」とクッキーをひとつサービスしてくれた。そのさりげない「おまけ」の仕方がくすぐったくて、帰ってからすぐにコーヒーを淹れてクッキーを食べた。
鮮魚屋さんもコーヒー屋さんも徒歩圏内にある。この街に引っ越してきてよかったと最近しみじみ感じる。
なんにしても「おまけ」をされるのは気持ちがいい。なんとなく「お世話になっています。これからもよろしくね」と言われている気がする。そう考えると、もちつもたれつの間に「おまけ」があるとも言える。
人によっては恩着せがましくて嫌、という考えもあると思う。僕も昔はそんなことを思っていたような気がする。「タダより高いものはない」と幼少期の教えはなかなか抜けないもの。少しでも「おまけ」されると腰が引ける、というかむしろ疑っていたような節もあった。
でも最近は、「おまけ」を受けることで僕の中で芽生える強制力のない小さな責任感みたいなものが気持ちがいい。それが住んでいる街に点々とある、というのもまた。
「おまけ」されたことがたて続いたものだから、ふと自身はこれまで「おまけ」をしたことがあっただろうか?と振り返ってみた。
サラリーマンとして生きてきたので鮮魚店やコーヒースタンドのようにモノで「おまけ」をすることは実質的にはできてきていない。では何をもって「おまけ」なのだろう?とちょっと考えてみる。
近いかもしれないと思ったのが「奢る」という行為だ。お世話になった人に「これからもよろしくね」と奢る行為は「おまけ」に近いのではないのだろうか。現に奢ってもらった記憶をいくつか紐解くと(大抵酔っ払っているので薄い膜のかかった記憶だけど)、奢ってくれた方々は皆口を揃えて「これからも頼むよ」「頑張れよ」といった声をかけてくれていた。
そんなゆるい期待を込めた「おまけ」を、これまでたくさん受けてきたことに改めて気付かされた。
そしてそこまで振り返って愕然とした。奢ってもらった記憶はたくさん引っ張り出せるのだけど、奢った記憶となるとほとんど思い出せないのだ。この年齢になってさえ、僕は圧倒的に奢ってもらってばかりなのだ。自身の薄情さに辟易とする。
感染症のせいで実質的に奢ることができない今のうちに、奢りたい人リストを作り上げておきたい。
先日久しぶりに出社して後輩と顔を合わせた。ふだんオンラインでテキストのやりとりはしていたものの、やはり面と向かうと嬉しいもので、しばらくはとりとめのない雑談に花を咲かせた。
リモートワークが浸透してきて効率よく仕事が捗るようになった反面、これまで当たり前にできていた雑談が気軽にできなくなった。そんなことだからか、世の中的にも雑談の必要性が説かれる機会が増えたように見える。ただ時にその「必要性」は、肩に力の入った言葉に映ることがあって、余計に雑談ならではの気軽さを遠ざけてしまう。
「雑談をしましょう」と言葉だけ眺めれば爽やかに映るけれど、僕なんかは雑談って意図して自ら「する」ようなものではなく、勝手に「なる」ものなのでしょう?と、「雑談しよう」の標語が出てくる度にいつも首を傾げていた。
それでも、雑談でもおしゃべりでもいいけれど、会えば気軽にとりとめのない話をしたい人というのはたしかにいる。話すことはなんでもいい。昨日食べたものでも、最近感動した本でも、気になり出したお腹まわりのことでもいい。そんな人たちを思い浮かべてみると、共通するのは「これからもよろしく」と思う顔ばかりだ。
雑談やおしゃべりというのはもしかしたら、もっとも小さくてもっともお金のかからない「おまけ」なのかもしれない。そうであれば、僕が今できるのは積極果敢に雑談を「する」ことである。天邪鬼を気取って首を傾げている場合ではない。潔く前言撤回させてもらいたい。
心地よく暮らすために、街にも人間関係にも「おまけ」が溢れている方がいい。
「引き続きお世話になります」とゆるい責任を抱えていきたい。
文/写真:Takapi