たかが

12月に差し掛かった途端、急に冷え込むようになった。

いよいよ師走感を肌で感じると(マフラーを出したり厚手のコートを引っ張ってきたり)、例年であれば、1年を振り返っては簡単な総括をして、来年どうしたいかをぼんやりと考え始めるのだけど、今年はどうも振り返りがうまくできないでいる。

1年の大半を感染症対策として「外に出ない」時期が続いたからか、なんとなくずっと同じような日々を過ごしていたような気がして、「あれは今年だっけ?去年だっけ?」となってしまうのだ。

そんなことだから、緊急事態宣言が明けてから、何かを取り戻すように外に出る機会が増えた。しばらく会えなかった友人たちと酒を飲み交わすことは当然として、パートナーとはここ1ヶ月の間に、ライブに行き、動物園に行き、美術展に行き(3回)、温泉にも行った。

酒を飲み交わすのはやはり楽しいし、ふだんの生活圏から離れるのももちろん心が踊る。「これが待ちに待った日常だ」と感慨深くなる一方で、こういった「リフレッシュ」のための行事にも、筋力というか体力が必要だったんだということを痛感している。

ちょっとしか酒を飲んでいないはずなのに、翌日重い二日酔いに襲われたり、美術館に行って帰ってきたら、すっかりくたびれてしまってそのまま夜まで寝てしまったり。自分が思っている以上に「目に見えない筋力」は、放っておくとすぐにでも衰えていくのだということを嫌というほど味わうことになった。

外に出るようになり、対面する機会が増えてくると「水が合わない」と感じることも増えてきた。

仕事柄、社内外の多方面の方々と向き合うことが多い。それはとても刺激的で嬉しいのだけど、その中にはどうも話が合わない人もいる。

別にそれはそれで構わないし、そういった人たちに対して、最低限の礼節を持って察することができるくらいには大人になったつもりだ。サラッとかわしてすぐに忘れることができるスキルも身につけているつもりでいた。

ただ、最近はそういった人たちと会話した後にぐったりすることが増えた。自身にとって何が「合わない」のか、何が「疲れさせる」のかはいまいちよくわからないのだけど、彼ら彼女らと相対した後に感じるのは「あぁ、さっきの人も水が合わなかったな」という胃もたれのような鈍い感触と、自身が「損なわれた」という消耗感だ。そして時に、頭痛や手の痺れを伴って寝込んでしまいそうなくらい、体調にも悪影響が顕れるようになった。

「外に出なかった」期間は、人と対峙する筋力というか免疫というか、本来備わっていた(もしくは年齢とともに積み上げた)能力を一気に削いでいってしまったようだ。

なんとも重苦しい展開になってしまった。師走特有の忙しさで少しまいっているだけだと信じたい。

とは言え、もちろん明るい側面だってある。「水の合う人」とのつながりがより大切に思えるようになった。更にもうひとつよかった点を挙げるなら、住んでいる街にも「水の合う」場所がいくつかできたことは、ここ一年を通じて一番大きな収穫かもしれない。

行けば名前で呼ばれ、隣に座った「はじめまして」の方とも談笑できる近所のバル、Instagramで近所の食事処をアップすれば「どこですか?」とDMをくれる近所の雑貨屋さん、たまにおまけをくれる魚屋さん、行く度に数分だけ近況報告をするコーヒー屋さん、ハナレグミ の話で盛り上がれるカレー屋さん。

僕のことをなんとなく知ってるけど多くを知らない人が徒歩圏内に増えるのはなんとも嬉しい。そしてそんな場所に足を運び、ちょっとした気安い会話をする度に、不思議とほっと気持ちが解け、帰り道には身体が軽くなっているのだ。

「近くて遠い人」がこれほどまで暮らしを「楽にして」くれるものだとは思わなかった。新しい発見だ。

少年野球をやっていた頃、三振したりエラーしたりして俯いていると(昔から落ち込みやすい)、コーチをやっていた父親は度々僕の後ろに立ち、頭をゆっくりポンポンとたたきながら「たかが野球、されど野球だ」と笑った。

当時は言っている意味がよくわからなかった。ただ、「あんまり気にするな」という雰囲気だけは、朗らかな声と頭にやさしく触れる手で感じてはいた。

その言葉の意味が最近はわかるようになってきた。

今まさに向き合っていることに対して、あまり大袈裟にならずに「たかが」と笑い飛ばすこと、それでも「今だ」と思ったら「されど」と脇目もふらずに思い入れること、それらはまわりに惑わされず「自分が決めて」いいんだよ。そのくらい軽やかでいなさい。

そんなことが言いたかったんじゃないだろうか。
もう死んでしまった父には確かめようがないのだけれど。

頭をポンポンとたたいてくれた父親の年齢に近い年齢になって、そのシーンを思い出してひとつ確信めいてわかることがあるとすれば、あの時父親は、僕に声をかけながら自分に言い聞かせていたということだ。

たかが人生、されど人生、と。

今年ももう終わる。
例年通りの「忘年会」も今年はなんとかできそうだ。

年を忘れるくらい軽やかに、水の合う人達と杯を交わしたい。その時間だけは、されども手元に持っていたい。

今年もコラムにお付き合いいただきありがとうございました。
みなさま、良いお年を。

文・写真:Takapi