胎動

近所の公園の梅が見頃を迎えている。どうやら梅の名所らしく、調べると650本の梅が植わっているらしい。毎年この時期は「まつり」と称して催しものを行っては来場客を喜ばせているのだけど、今年は感染症の影響でこの催しものはなくなってしまった。例年に比べれば人出は少ないものの、行けば本格的なカメラを構えた人や、ベンチに腰掛けたベテランのご夫婦たちで静かに賑わっている。この頃は気温も上がり散歩にはうってつけの陽気になったものだから、在宅勤務の合間や週末の午前中に公園を散歩することにしている。

桜でも梅でもいいのだけど、一斉に咲き誇った花々を遠巻きに眺めるのが好きだ。もっと正確に言うなら、花々を眺めるというよりも、人々が一心不乱に引き込まれるように同じものを愛でている(と思われる)景色を眺めるのが好きだ。なぜだか、少なくない数の赤の他人同士が、一心にひとつのものを見つめているのを眺めるのは心地良く思えるのだ。

そして、それ以上に個人的に好きなのが、今まさに咲き誇らんと準備をしている蕾を近くで見つめることだったりする。冬の寒さに耐えながらも、少しずつ蕾が膨らみ色を付けていくのを時間を追って見つめる時間がたまらなく好きなのだ。葉も抜け落ち一見すると死んだようにすら見える皺皺の樹木だけど、実はその内側ではずっと生命が蓄えられ脈打っているんだと思うと、その静かな胎動に勇気づけられるような感覚にさえなる。

それはそれとして、今年も近所の公園は綺麗な色をつけている。色をつける時間は短くて、花がこぼれた後は、息つく間もなく新緑の季節を迎える。新緑の季節も好きだ。一気に芽吹く瑞々しい緑を見ていると、「もっといけ」と背中を(というか幹を)押してあげたくなるような気持ちになる。その頃をまた楽しみにしたい。

今の家が下北沢まで徒歩圏内ということもあって、週に1度程度は下北沢の街に行っている。暇つぶしに本屋をぶらついたり、馴染みの洋服屋さんを覗いたり、「世界で3番目にうまい」中華屋にピンクチャーハンを食べに行ったり、終わらない仕事をカフェに持ち込んだりしている。

週に1度くらいは訪れているはずなのに、ここ最近の街の変わりようには行く度に驚かされる。数年前(もっと前かもしれない)から始まった都市開発は、線路の「地下化」を皮切りに、これまでの街の姿を大きく変えようとしている。「再開発」と言えば聞こえはいいが、要は「かつてあった」ものを壊し、そこに新しく「今に合う」ものを拵える作業であるわけで、そのあまりの急激な変化を目の当たりにすると、はじめの方はなんとも胸がザワついてしまった。「今に合う」もののためにそんなに棄てなくてはいけないのかよと、「今」が少しくらいは譲歩しろよと、地元民でもないのに少し憤ったりもした。

けれど、徐々に壊された場所に新しい設えができ始め、かつて線路が走っていた場所が遊歩道となり、子連れの親子やカップルなどが「ふつうに」(いやむしろ楽しそうに)行き来しているのを目の当たりにしていると、思わずニヤリとしてしまうような感覚にもなる。つまりは高揚しているのだ。そんな自分に少し驚きもする。この高揚感はなんだろう?と考えると、先ほどの梅の蕾を見つめるような感覚と似ているのだということに行き着く。今まさにひとつの新しい命を芽吹かせようと、荒々しいような息遣いを間近に感じて少し昂っているのだと思う。

変わらない街並みは好きだし、残したい街並みももちろんあるけれど、一方で、大きく変わらんと唸りのような荒々しい息遣いがする街並みも見ていて清々しい。そういった意味で下北沢は、中華料理屋の珉亭のように昔ながらの姿のまま変わらないものと、親子が夜間も安心して歩けるような遊歩道がいい具合に交わっていて(あくまで個人的な感覚だけど)、その新旧が入り混じる景色は、不思議と安心感を覚えさせる。安心とはつまり、「僕の足跡」はいずれこの街のどこかに残り、そして、いつか僕から「引き渡される存在」も、その場所を両手を振って闊歩できるであろうという安心だ。家族間の連綿とつづく(であろう)小さなつながりのようなものが、街にも拡張しているような感覚とでも言えばいいだろうか。

老木になっても死を迎えない限り梅は花を咲かせる。死んでもなお、その近くにはまた新しい芽が育っていく。古いものと新しいものにはそれぞれ役割があって、その関係が静かに繋がり、足跡は年輪として刻まれていく。そして毎年早春に花を咲かせる。約束などもないのに、きっちりとその役割を果たす。そんな、言語化されない約束のようなものが横たわっている街に安心を覚えるのだと思う。

今年も当たり前のように春を迎える。世界中でどんなことが起きようとも、春はくる。そして春は新しい季節であると相場は決まっている。それは咲き誇る梅の花を見ればわかることだ。

僕は僕で、この春は例年よりもそわそわしながら「新しい暮らし」に備えている。それでもたぶん、大丈夫なんだろう。毎年約束されるように芽吹く花のように、古いものと新しいものがぶつかりながら新陳代謝を繰り返す街のように、僕の暮らしはただ、ただ続いていく。

妻のお腹に耳を当て、今芽吹かんとする胎動を聴きながら、そんなことを考えている。

文・写真:Takapi