感情

4月から新卒で入社する方とオンラインで話す機会があった。つないでくれた人事の担当に聞けば、今の僕の仕事を何かで知ったらしく指名で話を聞いてみたいとのことだった。僕なんかの仕事に興味を持つなんて、また変わった人もいるもんだと思いながら、ありがたい機会でもあったので二つ返事で場を設けることになった。

実際に画面越しでお見かけした彼は、スーツ姿ではあったものの(そんなに気を遣わなくていいのに)、学生らしさが残ったフレッシュな面持ちだった(どうでもいいけど、なんで入社半年くらいであっという間に“社会人の顔”になってしまうのだろう)。そういった表情に久しく出会っていなかったのと懐かしさも相まって(もう20年近くも前になるのか)、ちょっとだけ、動揺のような、高揚のようなものを抱えながら話すことになった。

事前に質問をいくつも用意してくれていたようで、それに順繰りに答えつつ、途中脱線を挟んで話していたら、あっという間に予定された1時間が経ってしまった。最後に、と前置きをしてからされた質問は「社会人としての心構えは?」だった。

そうか、僕は社会人なのか、と呑気なことが頭に過りながらも、どんな答えを返すことが彼のためになるのか、数秒間逡巡してから、「面白がる自分と辛辣な自分。その両面の感情を自身の中で飼い慣らすことじゃないでしょうか」と答えていた。

その答えを聞いて、彼は一瞬怪訝そうな表情をした。その気持ちはわかる。僕自身なぜそんなことを言ったのか、言ったそばからよくわかっていなかったのだから。急いで何か他に気の利いたことを言えないかと考え始めたところで、「なるほど。ありがとうございます」とフレッシュな表情に戻った彼から助け舟をもらう格好となってしまった。そしてそのまま型通りの挨拶をして会は終わった。

ミーティング用の画面を閉じた後、ひょっとしたら前途有望な若者に対して見当違いなことを伝えてしまったのかもしれないと後悔し始めていた。ではどんなことを伝えればよかったのか、少し考えてみたものの皆目検討もつかないまま、次の会議の画面が開かれ、あっという間に頭の奥の方に追いやられていった。

翌日、彼からお礼のメールをいただいた。そこには昨日僕が話した内容がきれいにまとめられたばかりか、彼自身の「気づき」がセットになって綴られていた。その内容に驚いた。とりとめもない僕の話を端的にまとめたその文章は筋が通っていて、読んでいたら僕自身が学ばせてもらうような、不思議な感覚に陥った。まるで思考の「逆輸入」だ。簡単に返信を送り、聡明な彼の行く末を静かに祈るように、メールの文字が並ぶ画面に頭を下げた。

この年齢になれば当然ながらいろんな立場の人と接することにもなるし、いろんな声が入ってくるようになる。

個々人の間における困りごとや、不満や不安も僕の元には届いてくる。それぞれの立場には、もちろんそれぞれの主張があって、聞く度に「いや、ほんとそれはごもっともですね」と思うことが多い。困るのはどんな人の訴えも「ごもっとも」だと思えてしまうことで、僕としては一体誰の味方なのだろう、ということがわからなくなって自身が混乱してしまう、ということだろうか。

そんなことがあったから、というわけでもないのだけれど、年齢特有のものなのか、はたまた時代的なものなのか、「確信できるもの」がなくなってきたと思い至る。それはそれでいいとは思いつつ、いまいち自分の足元がおぼつかないような、所在なげな感じにモヤモヤとするのも事実だ。「四十不惑」どころか、どんどん惑わされている。

「両面ある感情を飼い慣らすこと」は、学生に向けたアドバイスというよりは、今の僕に向けた心得だったのかもしれない。

海外に目を移せば、大国が隣国を侵略し始めたり、栄えあるショウの場で平手打ちが披露されたりと、目にする度に胸がクッと押し付けられるような映像が日々流れてくる。そういったニュースが流れて来れば、即座にすさまじい量の「議論」があらゆるディスプレイ越しで行われ始める。ただ僕は、そのやりとりを眺めることしかできない。

烈しい言葉で主張される「正しさ」に寄りかかりそうになることもあるし、その主張に対する反論(時に罵倒を含んだ批判)を目にして、そちらの言葉に揺れたりもする。糾弾する言葉も、論理的な説明も、どこか遠くに感じてしまう自分がいる。「自分の身になって考えろ」という道徳的な言葉すら、不謹慎なのではないかとすら思えてくる。

今僕は、自分の感情をもっとも信じることができないでいる。
それでも「自分の感情だけは手放してはいけない」と言われているような気もしている。

外では桜が舞っている。
こういう時に必要なのは、談笑と酒だということも(あくまで個人的な特性として)わかっている。

思いっきり気を抜いて、友と談笑したい。
その感情だけは信じることができている。

文・写真:Takapi