指差し確認

娘が喋るようになった。

と言っても言葉を使えるわけではなく、言葉の代わりに指を差し、「うー!」と声を上げて訴えるようになった。

朝、目を覚ますとカーテンを指差し「うー!」(カーテン開けて日光浴びさせて!)と叫べば、リビングの方角を指差し「うー!」(早く遊ばせて!)と急かされる。

離乳食をあげている時も、ベビーチェアから立ち上がらんばかりに器やコップを指差し「うー!」(米の次は味噌汁でしょうが!)と苛立ちをあらわにする(ちなみに最近は、「ごはん」という単語を聞くと口をパクパクするようになった)。

ベビーカーで散歩していると、目に入るもの全てが気になるようで、生垣に、電信柱に、一軒家に、雑草に、標識に、空に、そしてすれ違う犬や人に向かって指を指しては「うー!」(あれはなんだ!?)と質問を投げかけるようになった(たぶん、あれは質問のはずだ)。その度に「植物だねぇ」「コンクリートだねぇ」「人だねぇ」などと相槌を打つのが習わしとなっている。

人に向かって指を差すのはなんとなく憚られるため、向かいから人が近づいてくるとこっそり「バイバイ」と声をかけ、指を差す代わりに手を振らせるくらいにはマネジメントもでき始めている(ついでにほとんどの人が手を振り返してくれる。優しい)。

指を差した先と「うー!」の強弱から、何を欲しているのかを瞬時に考えなくてはならない。これがなかなか大変でもあるし、面白くもある。当たればご機嫌になるし、意思疎通ができなければ、より強い「うー!!」が待っていることもあって、なかなかエキサイティングである。

そんな娘も今月から保育園に登園することになった(ちょうど4月で1歳になる)。先日の入園式でも指差し確認は怠らず、園長先生に向かって大きな声で挨拶ができた(正々堂々、面と向かって指を差した格好だ)。

入園式は感慨深いものになるかと思いきや、当然ながらどこの子もじっとなどできはせず、ただただ賑やかな会で、何かに耽る時間など皆無だった。でもその賑やかさを感じながら、娘にとって真新しい世界に飛び込んでいくことを実感することにもなった。

きっと、より一層指差し確認は増えていくのだろう。指を差した数の分だけ、新しいことを知り、少しずつ成長していくのだと思うと、ピッと迷いのない、小さく差した指が俄然愛おしく感じた。そしてその指のように真っ直ぐに育てよと、小さく心の中でエールを送った。

そんなことを思っていたら、ふと小学生の頃を思い出した。あれは多分小学校2年生の国語の授業で、おそらく漢字のお勉強だったように思う。

「親」という字を教えてもらっている時、ふと「あぁ、そうか!」と声を上げ、「“木”に“立”って子どもを上から“見”守ることが親なんだね」と発言していた。少しの間の後、ベテランの女性の先生が僕の席まで駆け寄ってきて、「そうだねぇ、ほんとにそうだよねぇ」と、顔をクシャッとさせて頭を撫でてくれた。そんな記憶が蘇った(小学生の頃のことなどほとんど忘れているのに、こういうタイミングで都合よく思い出すのも人間のすごさだ)。

これからの人生の中で、娘の指差す方向を「木の上から」眺めるようなことができるだろうか?今の僕では到底できそうにはない。僕自身も変わっていかなくてはならない。少しでも「見通せる」くらいには、せっせと「木登り」をしていかなくては、と思った。とりあえず、娘の後を追うようなことをしたり、前に立ち塞がることだけは避けようと、小さく決心した。

4月は新しい季節だ。出会いの季節でもあるしスタートの季節でもある。SNSのタイムライン上には、転職する人、新しい挑戦を始める人の「決意表明」が溢れている。

好むと好まざるに関わらず、幾分の新しさを伴ってこの季節を通り抜けることになることはたしかだ。僕自身も、仕事内容は変わらないものの、周りの風景が少し変わることになった。楽しみが増える反面、身の振り方を改めて考えなくてはいけない立場にもなった。

大人になってもなお、指差し確認をすることはあって、それはきっと4月のような新しい季節なんだと思う。できれば、春の陽気に呑まれるように、溌剌と、でも朗らかに指を差していきたいところだ。

そしてくれぐれも、陽気さについついうっかり羽目を外して他人から指を差されないようにしたい。

文・写真:Takapi