「あぁ、それはホンヤクだねぇ」
そう言われて、「ホンヤク」が「本厄」に結びつくまで少し時間を要した。
上司と軽い雑談をしている時だった。
体調が芳しくない(なんとなく微熱が続いている)という話をした時に、上司から出た言葉がそれだった。
本厄。たしかに、と思うことは結構ある。
今年に入ってからというもの、1ヶ月に2週間くらいはなんとなく体調が悪い。
1週間鼻水が止まらなかったり、治ったと思ったらその翌週には下痢が続いたり…そんな感じで、何かしら「当てられている」としか思えないことが(そう思わないとやっていけないことが)続いている。
先月の健康診断でも、とある項目で「E判定」だった。健康診断だけはほぼオールAだった身としては、「E」という印字を目にした瞬間に「イー=良い」と勘違いするくらいには縁遠い評価で、しばらく愕然とした。
このコラムを書いている時も小さく頭痛がしている。1週間前くらいから始まった微熱がようやく治まったと思った矢先の、この頭痛の症状である。
ただ僕だって、何もせずに本厄を浴びているわけではない。友人に薦められてビタミンを摂取するようにもなった。毎朝ヤクルトも飲んでいるし養命酒だって飲んでいる。それでもこんな風に何かしらに罹るのだ。これが本厄と言わずしてなんであろうか(若干ヤケになっている)。
いや、いい加減認めよう。本厄関係なく、シンプルに「おじさん」になった、ということだ(先程の「E判定」の件もだいぶおじさん味がある)。
そして寂しいかな、おじさんに必要なものも健康である。この年齢になってくると、仕事でも家庭でも、求められるのは前のめりなやる気や人当たりの良さ、元気や愛想よりも、「適切なパフォーマンス」である。おじさんにとって必要なものは「やる気スイッチ」ではなく「健康スイッチ」というわけだ。
で、肝心のその「健康スイッチ」はどこにあるのだろうか。ビタミンでも乳酸菌でもなければ(ついでに言えば睡眠はしっかりとれている)、ふつうに生活している中にはないということになる。絶望的だ。
その日は朝から近所の中華屋さんに行くことに決めていた。たまたま打ち合わせがほとんど入っていない日でもあって、朝から外で昼飯を食べようと思っていたが、候補があるわけでもなく、その中華屋さんに絶対に行くことに決めていた。身体中がそのお店の「ラーチャン」を求めていた。梅雨に入った途端の猛暑で身体がまいっていたのかもしれない。
行くのは半年ぶりくらいかもしれない。席に着けばすぐに、シミュレーション通り「ラーチャン」を頼んだ(ちなみに「ラーチャン」とはラーメン・チャーハンセットのことである)。
注文後、数分で出てきたチャーハンとラーメンを、文字通りかっこむ格好になった。久々に来たのだならじっくり味わえばいいものを、早く身体に摂取したいと、ほとんど手が止まらずにものの数分で食べ終えてしまった。
大抵こういう「早食い」はその後、後悔することになる。おじさんと早食いは相性が悪く、胃がキリキリしだして、漢方薬に頼ることになるのだ。しかしこの日は夕方の時間になっても胃がキリキリすることはなかった。昼飯後特有の眠気も一切なく、ただただ仕事がはかどる1日になった。チャーハンとラーメンだけで健康を取り戻した、ということだ。
不思議と言えば不思議だが、自分が食べたいと思うものには(朝から切望するほどに)、やはり何かしら身体からの本能的な欲求が顕れているんだということなのだろう。そうとしか思えない。
体調が思わしくない時に決まってやってくるもののひとつが「会食」だ。そしてこればかりはなかなか「リスケ」「欠席」ができるものでもないという代物でもある。
とは言え、社会人はじめの頃は広告代理店の営業でもあった。実際に会食の現場に行きさえすれば、当時の何かに火が点くのか、体調のことは頭の中のはるか遠くの方に追いやられて、楽しくその場を過ごすことができるくらいには訓練されているつもりだ。
その日も頭痛薬を朝・昼と飲んでいたが、夕方には体調が戻り、予定通り会食に参加することになった。会食は楽しく、しっかりと役割も果たすことができた(はずだ)。いい余韻を残しながら、帰途につくことができた。
家に着き、一息つこうとソファに座り水を飲みながらぼんやりしていたら、突然悪寒が襲ってきた。そのことに慌てると、今度は奥歯が震え出した。小学生の頃、プールから出た後に震えが止まらないみたいに、ガタガタと。小学生の頃と違うのは、直前まで冷たいところにいたわけではないということと、挙げ句手まで震え出し、身体全体がバイブレーション状態になってしまったことだ。
「これはまずい」と、頭というより身体が訴えている。震えを抑えこみながら、なんとか熱い湯を風呂に張り、じっくり浸かることにした。数分浸かることでなんとか悪寒を消し去ることができた。その後は毛布をかぶって寝ながら汗をかくことにした。異様な汗の量だった。熱帯夜の夜に、お酒を飲んだ後にやる対処法として正しいとは思えない。ただ、そこまでしてようやく落ち着くことができた。
翌朝は幾分気持ちよく起きることができた。
この年齢になってわかってきたのは、好むと好まざるに関わらず、自分にフィットするものややり方はある程度「決まって」しまうということだ。
それはきっと自身の身体に関係することだけではなく、精神的なものや慣習的なものでもそうなのだろう。世の中に流れる世代間ギャップのニュースが、その何よりの証左だ。
人は「変われない」のではなく、人は「積み上げたものをそう簡単には降せない」ということなのだろう。そうなのであれば、我々「おじさん」がしなくてはならないことは、「積み上げたもの」にもっと自覚的になるということだろうか。なんだか難しそうな話だ。
冒頭の「健康スイッチ」の話から遠くまで来てしまった。とにもかくにも自分を「心身ともに律するスイッチ」は年齢相応に把握しておこうと思う。
文・写真:Takapi