この街に引っ越してきたのは4年前。そのほぼ同時期に近所にオープンしたワインバーがあって、よく通っていたのだけれど、つい先日営業終了することになった。
そのワインバーは10席程度の小さなお店で、店主のお姉さんがひとりで切り盛りしている。開店当時は、行けば数人のお客さんということもあって、店主とお客さんが入り混じってよく会話をした。いろんなメディアで取り上げられ人気店になってしまってからは、行けばほぼ満席で、店主とはじっくり喋れなくなっていた。それでもお客さんの賑やかな会話が楽しくて、定期的に訪れる行きつけになっていた。きっと店主の人柄がお客さんの空気もつくっていたんだろう。
子どもが産まれからは気軽に通えなくなってしまったけれど、それでも時折どうしても行きたくなってしまって、おそるおそる娘を抱えては連れて行っていた。小さい子を連れて行っても店主のお姉さんもお客さんもあったかくて、行けば毎回のように「今日も平和な世界だ」とSNSに書き込むほどに、僕の中ではこの街の拠り所のような、シェルターのような場所だった。
閉店の報せを知ったのはお店のInstagramで、これは最後に挨拶に行かなくてはと、娘を連れて3人でお邪魔した。
前回行ってからは半年程度経っていただろうか。お店は変わらず平和そのもので、その日は隣に座った若い女性が(聞けばまだ社会人2年目くらいだった)2歳の娘の相手をずっとしてくれていた。娘も心なしか高揚していたのか、よくおしゃべりしていた。
店主とは少しだけ話すことができて、聞きたかった「これから」を聞くことができた。閉店後は少し休んだ後、またお店をやることにしているらしい。探している場所はさらに僕の家の近所とのことで、惜別の気持ちよりも心踊るような最後の来店となってしまった。
会計を済ませてお店を出ると、店先まで見送りに来てくれた(いつも見送ってくれていたことを書きながら思い出した)。「あまりお話はできないと思ったので」と、そっと小さな封筒を渡してくれた。お手紙を書いてくれたらしい。律儀な店主らしい振る舞いに、少し鼻の奥がツンとする。
家に帰ってから封を開ければ、小さな便箋にびっしりと言葉が敷き詰められていた。はじめて店主の文字を見たけれど、人柄は文字に顕れるのか、文字が人柄を示すのか、店主が読み上げてくれているような気持ちになった。
そこには我々が来店した時のエピソードとともに感謝の言葉が綴られていた。毎日忙しいだろうに、こうやって手紙を書いてくれたこと、おそらく多くのお客さんにこうして書いているのだろうと思うと、頭が下がる思いだ(実際に読み終わった後、小さくお辞儀していた)。
それから1週間後ほど経って、いよいろ営業最終日を迎えたワインバーのSNSの投稿には、店主の新しいアカウントも併記されていた。お店が終わってしまう感慨深さは追いやられ、「これで店主の“次”がわかる」と安堵と期待の気持ちが芽生えていた。すぐにアカウントをフォローした。
ひとつの「平和」が終わるとともに、新しい世界への楽しみが増えた。
今の職場に来てからもう6年が経つことになる(僕としては珍しく長居をしている)。先日、入社してはじめて関わったプロジェクトが終わりを迎えることになった。
そのプロジェクトは特定のテーマが好きな人が交わるコミュニティのような取り組みで、参加メンバーはSNSでもつながり、活発に「好き」を交換できる仕組みになっている。
時折SNSを覗けば、メンバー同士の楽しげなやりとりが公開されていて、その度にこのプロジェクトを始めてよかったと思うと同時に、中心で頑張っているメンバーの熱量を感じながら勝手に鼓舞されていた。
プロジェクトは、はじめてから3年くらいは小さく関わっていたけれど、その後はSNSから覗く程度の距離感になっていた。それでも都度覗きに行くくらいには思い入れがある取り組みだったし、ずっと続けていくべき取り組みだとも思っていた(だってすごい熱量だから)。
それでも組織でやるものには「突然」が起こり得る。組織である以上、始まりも終わりも自分の力では及ばない「力学」が働くことはわかっている。そのつもりでも、簡単には納得できない思いもあるし、何より思い入れがあるものが終わるというのは一抹の寂しさが付きまとう。
先日、その取り組みに関わった人を集めた大謝恩会が行われた。ありがたいことにゲストとしてお招きいただいたので顔を出すことにした。
総勢100名近い人が集まっていた。ほとんどの人がもう知らない人だった。入れ替わり立ち替わり話を聞いていても、SNSで感じる熱量となんら変わらない(むしろより強い)熱量を感じた。
謝恩会の後、SNSを覗けば参加者の声がいくつも並んでいた。その声を見ていて、「ああ、でも」と思った。きっとこの取り組みが終わっても、きっとまた新しい場所になっていくだけなんだろうな、と思った。もっと自由に、もっと「好き」が集まる場になっていくような、そんな予感を感じさせる言葉たちだった。むしろこのタイミングで「終わって」よかったんじゃないか、とさえ思った。
「終わりは新たな始まりである」なんて使い古された言葉の通り、この場は新しくなることが確信できた。とはいえ、その新しい場所には僕はいないんだろうな、とも思ってもいた。そこに少しばかりの寂しさを感じてもいた。
「終わり」には寂しさが付きまとうし、「終わり」は次の始まりにつながっている。
それはそれで数千年変わってないことなんだと思う。けれでも、これだけ簡単につながれる時代にあって、終わりは「ひとつの区切り」という感覚の方が強い。なんというか、「終わり」が格下げされたような感じだ。
「終わり」を「区切り」とすることで、より関係が強くなるタイミングになる人もいるだろうし、今までの関係を「棚卸し」するタイミングになる人だっている。一昔前までは、「終わり」とともに、否が応でもつながりは一旦切断された。惜別という言葉の通り、別れは惜しまれるものだった。
「惜しむ」ものから「棚卸し」になった結果、きちんと別れるには「意志」が必要になってきている気もする。そう考えると面白い時代になったものだとも思う。面倒臭いと捉えることもできるかもしれない。腐れ縁などという言葉があったけれど、SNSがある限り腐ってもつながっていることが可能になってしまった。意志をもって断ち切ることでしか終われない(別れられない)というのは、ともすれば酷なのかもしれない。
とはいえ、自然と離れていくこともある。むしろつながりが増える分、「疎遠」な相手が増えるだけなのかもしれない。結局のところ、何も変わっていないのかもしれない。よくわからなくなってきた。
まぁそれはそれとして、この地続きのような、揺蕩っているような関係が心地良かったりもする。意志をもってつながりを切るような体力がなくなったおじさんとしては、つながりを自由に出し入れしながら出会い直したり、距離を置いたりしていきたい。
文・写真:Takapi