鳥肌

敬愛する先輩にレコードバーなる場所に連れて行ってもらった。

店内に入ると、レコード屋さんかと見紛うほどに、レコードがぎっしりと詰まったディスプレイラックがお出迎えしてくれる。席はカウンターのみ。腰をかけると眼前に大きなスピーカーが拵えられていて、存分に音の粒を感じることができる。耳で心地よく、目でも楽しめる空間になっている。

僕は音楽に精通しているわけではないので、そこに並ぶレコードのほとんどを知らない。それでも不思議とレコードが並ぶラックを見ているだけで心が踊る。ざっと眺めていると、一際目立つ真っ青なレコードが目に入る。10代の思春期真っ只中の頃、心の安定剤のような役割を果たしてくれたNIRVANAの『NEVERMIND』だった。

知っているアルバムであり、懐かしさもあって、つい「うわぁ懐かしい」と言葉が出てしまう。しばらく眺めていると、バーのマスターが「かけましょうか?」と気を利かせてくれる。果たしてこんなギラギラした音楽がバーの落ち着いた雰囲気に合うのかしら、と不安に駆られたものの、はるか昔にヘッドフォンで聴いていたこのアルバムを、レコードで聴くとどんな感じで聴こえてくるのか、誘惑に勝てずにお願いすることにした。

もう何百回(何千回かもしれない)と聴いたであろう馴染みのエレキのリフが流れた瞬間、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。鳥肌が立ったのだ。

それを感動と呼ぶには少し違う気がする。とは言え、何かしら僕の中にある感情を刺激したことはたしかだ。いい気分になって、その後はしばらくカート・コバーンの声に酔いしれた(幾分いつもより酔いの回りが早いような気がした)。

深夜の帰り道、最近鳥肌が立ったことってあったっけ?と酔いと眠気で回らない頭を巡らせてみた。が、すぐに思い出せなかった。そのことになぜだか少し寂しさを感じた。

そもそも鳥肌ってどんな時に立っていたのだろう。はじめて行ったフェスで大好きなアーティストが音を鳴らした瞬間とか、部活の大きな大会の時のスタート直前とか、比較的「大きい」シーンが思い浮かんだ。それは、わかりやすく言葉で括れるような感情ではなく、なんだかわからないけれど、「うわぁ」とか「すげぇ」とかの言葉でしか形容できないようなものに対して、言葉で形容できない代わりに鳥肌を「起動」させているような気がした。そう考えると、なんだか鳥肌は意志を持っているようにも思えてくる。

年齢を重ねるごとに鳥肌は鳴りを潜め、代わりに涙腺が緩むことが増えた。それもいとも簡単に。漫画を読んでいても、SNSの140文字の文章だけでも、電車の中でも、トイレの中でも、思わず鼻の奥がツンとして、涙を堪えるように斜め上を見上げる機会が増えた。

それはそれでいいことかもしれない。心は今でも動いている。

そんなことがあった直後に、読書中に鳥肌が立つ機会があった。

それは哲学者の永井玲衣さんの著書で、彼女がルーティンとして行っている「哲学対話」と呼ばれる集会のエピソードが並んだエッセイ集のようなもの。小中学校や地域のコミュニティに足を運び、そこで何個かテーマを持ち寄ってみんなで対話する、というもので、本の中には、いわゆる哲学書に出てくるような小難しい専門言葉は出てこない。ふだんの暮らし、もっと言えば人生における「問い」、それでも画一的な「答え」はない問い(たとえば「死んだらどうなるか」とか「約束は守らなければならないのか」とか)について市井の人たちと語り合うシーンが丁寧に綴られている。

そのエピソードのひとつひとつ、実直で切実な参加者の言葉が瑞々しく、何度も鼻の奥がツンとした。ここまでのめり込んだ本は久しぶりかもしれない。

その中の一節で鳥肌が立つことがあった。

 「もう少しでわかりそう」という感覚は、「もう少しで思い出せそう」という感覚に似ている

この言葉に触れた時、瞬時にとあるシーンが去来した。それは宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』、映画後半の銭婆が諭すように放った言葉だ。

 「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」

このふたつの言葉が僕の中でつながった瞬間、ゾワっと鳥肌が立っていた。

なぜ瞬時に『千と千尋の神隠し』が思い浮かんだのかはわからない。きっと、銭婆の言葉通り「忘れないもの」として身体の中に蓄積されていたのだろう。そして本の言葉がトリガーとなって思い出させたのだ。

でも鳥肌を立たせた理由はよくわからない。こうして改めて振り返っても、大きな感動を引き起こすようなエピソードには見えない。ひとつ言えるのは、今回起動させた鳥肌は、これからの人生において、またいつか「思い出される」機会を待っているような気がする、ということだ。

日々多くのものに触れ、その度に大小様々な感情が顔を出しては引っ込めている。立ち止まって、言葉にすることもあるけれど、ほとんどのことは、そのまま記憶の片隅に追いやられていく。ひとつひとつに立ち止まる暇は、残念ながらないのだ。

だけど、突然過去に「紐づけられる」ようなことがある。いつか身体を通ったものが、眼前に立ち現れては、言いようのない感情を沸き起こさせる時、忘れてはいけないこととして身体に刻み込ませるために、鳥肌は起動するのかもしれない。

そうやって身体に刻まれた記憶は、またいつか思い出される時をじっと、待っている。

文・写真:Takapi