もともとお腹は弱いほうだ。特に腸はしょっちゅうストライキを起こす。原因がわかる時もあれば(大抵は暴飲暴食だ)、よくわからないままトイレにこもりながら首を傾げることもある。そのことで10代後半から20代は特に苦労をした。通勤中にお腹が痛くなって途中下車することもしょっちゅうだったし、旅行に行く時も常にトイレを気にするような日々だった。
40代を迎え、腸の機嫌はそこそこ改善し安定した生活を送っていたが、先日、今度は胃がストライキを起こした。深夜に突然胃痛に襲われ、そこから一睡もできないまま朝を迎えた。ギリギリと胃が締め付けられる痛みは人生で初めての経験で、何をしたらいいかもわからず、寝る体勢を変えながら痛みをやり過ごすしかできなかった。
朝には若干痛みは引き、その日は会社にも行けたしご飯も少しは食べることができた。その翌日の朝はさらに痛みは落ち着き、安心して会社に行ったものの、お昼どきに不意打ちのようにまた胃痛に襲われた。
とりあえず近くの薬局に行って胃薬を買ってすぐに飲んだものの一向に痛みは引かず、次第に椅子に座っていられないほど痛みが強くなっていった。もう駄目だと観念して午後の予定を全てキャンセルし、近くの病院に這うような思いで行った。
すがる思いで症状を伝えたものの、その医者の問題なのか、そもそも胃痛がそういうものなのかわからないけれど、簡単な問診だけして、症状などの説明はされずに痛み止めだけ渡される結果となった。
それでも痛み止めが効いたのか、翌日には快方に向かい、数日後には普通にご飯も食べられるようになった。症状が落ち着いた頃、改めて今回の胃痛の原因を探ってみた。
特段無茶な食生活もしていないし、ストレスもさほど感じていない(症状の前にストレスフルななにかが起きたわけでもない)。だから余計に気にかかる。けれどそこで数ヶ月前に起きた、原因不明の腹痛を思い出した。胃痛ではなかったが、原因不明の下痢が3日間ほど続いたことがあった。
その時と今回の症状との共通点がひとつあった。それぞれの症状の直前にサプリメントの摂取量が増えていたのだ。
友人に教えてもらい、半年前くらいからサプリメントを摂るようになっていた。40代にさしかかり、疲れやすさが顕著に出るようになり、体調も崩しやすくなってきたこともある中で、友人から薦められた「サプリメント対策」をとりあえず試してみることにしたのだ。5種類ほどのタブレットを毎日飲む生活になり、目に見えて風邪は引かなくなったし、疲れやすさも少し緩和されたように思えた(妻からため息が減ったとも言われた。そんなにため息ついていたのか…)。
前回の腹痛と今回の胃痛に共通するのは、その症状の前数日からサプリメント量が増えていたことだ。理由としては、口内炎ができていたり、なんとなく風邪っぽかったりしていて、そんなちょっとした体調悪化の兆しをサプリメントで押さえつけようとして、摂取量を増やしていたのだ。
サプリメントの摂りすぎでお腹の調子を壊すというのは、なんとなく聞きかじっていたが、この症状を経験するまではいまいちよくわかっていなかった。今回の胃痛で文字通り身をもって知ることになった。
「何事も過剰はいけない」というありがちな教訓とともに、継続的な健康と引き換えに一時的な不調を受け入れる、というなんとも冴えない事実に、無情な摂理を思い知ることになった。
古くは「aibo」という犬型のロボットが流行したが、いわゆるコミュニケーションロボットと呼ばれる、AIを搭載したロボットが最近また注目を集めているらしく、とある人気のロボットの開発をした方にお話を聞く機会に恵まれた。聞けば、本来的には家庭内のペットの代わりであったり、お年寄りの方のコミュニケーションツールとして活用されていたが、最近ではオフィスでも活躍しているとのことだった。
コロナを経て、働き方も多様化している。オンラインでのコミュニケーションが簡便になる一方で、やはり「人と人」のコミュニケーションが減退しているそうで、組織の健全化や強化をはかる意味あいで、徐々に出社させる企業が増えている。ただ、出社させたとしてもなかなかコミュニケーションが活性化しない。そんな中にあって、このロボットが社員同士のコミュニケーションの一助になっているというのだ。
愛くるしいロボットが間にあることで社員同士の会話のきっかけになったり、ふだんは堅物な上司の柔和な表情を引き出すことで部下と会話しやすくなったり、と効果を実感する企業が増えているとのことだ。
「同じ釜の飯を食う」という職業倫理ははるか昭和に置いていかれたものの、テクノロジーの進化で効率化した人間関係の先に犠牲となったのは人としてのやりとりであって、その課題もまたテクノロジーで解決するという流れに、アイロニーを感じてしまう。でもなんとなく、それも人間らしいな、と思ったりもする。
何かと引き換えに何かを得る、というのはこの世の真理のような気もするけれど、「引き換える」ことの手前には、失ったものや犠牲になったものがあって、そこに気が付いた時に多少の痛みや憐憫が伴う。
時折起こるその痛みは、人が人であるために必要なことを再確認し立ち止まらせるための、人類が備えた本能のようなものなのかもしれない(なんとも大袈裟で大雑把な結論だ)。
忙し過ぎる現代の生活にあって、享受している目の前の便利が何かと引き換えに得たものであるという認識をすることは難しいのだけれど、いざ何かの痛みを感じたのなら、「今自分は何と引き換えたのだろう」と、しばし頭をめぐらすことを、暮らしの中の一つの些細な知恵として手元に置いておきたい。
文・写真:Takapi