毎年恒例のことだが、3月末になると、大変お世話になった人から一度お会いしたくらいの関係の人まで、多くの人から退職報告のメールが届く。

SNS上でも新しい門出に向かわんと、感謝と決意と期待に溢れた丁寧な言葉が並ぶ。辛辣な空気が流れるSNSにあって、これらの「きれいな言葉」は、自然と良い空気も流してくれるのか、タイムラインを眺める自分の背筋も心なしか伸びているような気がする(気のせいかもしれない)。

同時にこの一連の「報告」は、自分自身の長い社会人人生のうちの一年が終わったことも伝えてくれる。「またこの一年も何も成し遂げられなかった」という、焦りのような諦観のような感情もセットに引き起こさせる。社会人人生ももう20年が経とうとしているが、年々この恒例行事が苦々しいものになっている。

真新しい気持ちで春を迎えられる人が羨ましい。そう考えるようになったのはいつからだろう。社会人にも毎年「卒業式」のようなセレモニーがあればいいのに(いや、やっぱり要らないか)。

そうは言っても、この時期は人事異動やら、新しい方針やらが出る時期でもあって、単純に忙しく、そんな感慨に耽ける時間はほぼないに等しい。いつの間にか羽織るコートが春物に変わっていて、その変わり目すらもう覚えていないくらいにはバタバタとしている(なんだか毎年同じようなことを書いている気がする)。

そんな日々にあって、ふと立ち止まらせてくれる存在が桜だ。

先日も、会社の最寄りの駅前のデッキを足早に抜けようとしていると、デッキから写真を撮ろうとしているのか、カメラやスマホを構えた人が数人並んでいるのが見えた。ふと気になってカメラの先を見やれば、きれいな桜並木が見える。毎年見てたはずなのに、そこに桜があることを忘れているのか、そういえば桜があったなと、歩みをゆるめては白色のアーチを数秒視界に留めた。

個人的なことを言わせてもらえば、桜を眺めるよりも、桜の花を撮ろうとしている人や花見に集まる人を見ることの方が好きだ。なんというか、これまで接点のないバラバラの人生を歩んできた、趣味も嗜好も年齢も違う人たちが、ただ桜が花を咲かせたという事実だけで、桜の花を撮ったり酒盛りをしたりと、同じ行為を行うために桜に吸い寄せられていく、そのことになんとも言えない温かさのようなものを感じてしまうのだ。その光景を見る度に、大袈裟でなく「人生って悪くないかもな」などと思ってしまうほどだ。理由はいまだによくわからないのだけれど。

足元に目をやればたんぽぽやオオイヌノフグリが花を咲かせている。週末には娘と公園に行き、その変化を目の当たりにできるようになった。チューリップを植えている家もあって、赤に黄色に紫に、彩り豊かな風景を見せてくれる。それはそれで気分は高揚するのだが、派手な色でもなく、一雨降ればすぐに散り去ってしまうようなか細い桜がもつ求心力に遠く及ばないのはなぜなのだろうか(娘は桜には興味がないのか、原色の花に吸い寄せられているが)。

今年は桜が咲いた途端、寒の戻りが5日ほどあって、ふだんよりも長く桜を楽しめている。桜が満開の週末、ひとり桜の遊歩道をカメラ片手に歩く機会に恵まれた。

とある団地の脇の通りには古い桜が数本立ち並んでいて、カメラを向けようとしたら、その下を勢いよく自転車に乗って走る少年と、背中を丸めたお爺さんが歩く姿が、同時にレンズのフレームの中に映った。そこから少し歩いて、桜の花を見上げた先には、アパートや一軒家が並んでいるのが目に入った。

その時にふと、ああそうか。と思った。桜にいっとう惹きつけられるのは、桜のそばには、暮らしが、営みがあって、その“ふつうの美しさ”を、ほんの一時、桜が映し出してくれるからなのかもしれない。人の暮らしの、そのささやかを時には讃えるようにと、刹那に咲き誇る桜の花が教え続けてくれているのかもしれない。だから、僕たちは引き寄せられるように桜の木の下に集い、カメラを向け、そして時に酒を飲み交わすのかもしれない、と。そんな仮説にもならない仮説が一瞬にして頭を駆け巡った。

同時にひとつの風景がフラッシュバックした。

体調を壊し検査入院をして、ひとまわり小さくなった父親と花見をしたことがあった。満開の桜を見上げながらポロッと「来年は桜を見れないかもな」とこぼした父親の横顔が眼前に浮かんだ。

その横顔は、寂しそうにも、どこか晴れ晴れとした表情にも見えた。桜が暮らしを映す美しさなら、人生を重ねるには十分だ。きっと父親には、桜の花の中に「これまで」が映し出されていたのだと思う。

その時にどんな返事をしたかは憶えてない。今なら「いい人生だったね」と返せたのかもしれない。

その翌年の春、父親は他界した。

桜にカメラを向けたまま、そんなことを思い出しては、しばらく身動きができずにじっとしていたものだから、隣に人がいることに気づかなかった。突然横から「きれいねぇ」と声をかけられ、振り向けば淑女が微笑んでいた。まるで僕の心をわかっているかのような、優しく慈愛に満ちた微笑みだった。ふっと小さく息をはき、はっきりとした笑顔をつくり「ですねぇ」と、僕は目を細めた。

文・写真:Takapi