必要に迫られて

「経営視点を養う」という名目の社外研修に参加している。これから3ヶ月にわたり、座学や課題をこなしていくらしい。ふだんの仕事では接点を持たないであろう方々(職種も役割も違う方々)と4人1組のチームとなり「10年後のビジネスプラン」を提出することがゴールとなっている。

未来を構想してワクワクするビジネスプランを作りなさい、ということを研修中に何度も言われているのだけれど、10年後どんな世界になっているか?という問いは、日々目の前のことに対処するだけで精一杯になっている身には、なかなかにハードである。

職場においても、常々「未来から逆算して物事を考えなさい」と、なかば呪文のように唱えられてはいるものの、そういう場で求められる未来とは「こうあってほしい」という希望的観測に基づく未来ではなく、現時点から考えられうる将来的な「リスク」に対処するための方策でしかないことがほとんどだ。

仮に突拍子もないSF的な未来を口にしたとしたら、ビジネスパーソンとしての危機意識の低さを露呈させるばかりか、口にした未来の「確からしさ」をわかりやすくロジカルに説明することを求められる。シンプルにメリットなどひとつもないわけだ。日々多忙を極める仕事においては、そんなことをやる時間は障害以外の何者でもない。なので基本的には、今の時点において考えられることをシミュレーションするくらいに留めることなる。

そういうわけだから、多くの大人にとっての未来とは、必要に迫られて構想するものであって、ワクワクしながら夢想するものではない、ということになる(そんな悲観的な大人ばかりではないのかもしれないが)。

話を研修に戻すと、すでにチームメンバーで未来について構想を深める機会(雑談のような議論)を何度も設けているが、「必要に迫られている大人」が集まり未来を想像しようとすると、どうしてもついつい悪い方に目が向いてしまう。超高齢化、地方過疎化、日本のビジネスのより一層の後退など…すでにニュースで声高に訴えられている窮状が、10年後さらに悪化しているという方向の話に拘泥してしまう。それはそれでその通りなのかもしれないが、このままでは宿題である「ワクワクするビジネスプラン」には程遠く、途方に暮れている。

「必要に迫られるシンドローム」(今ネーミングした)の厄介なことは、未来に限った話ではなく、実生活上でも影響がある。ことさら仕事が忙しくなり、年頃の娘(3歳。イヤイヤ期全盛期)の世話でも慌ただしくなっている状況下において、必要に迫られているもの以外に手が伸びないという重たい症状に罹っているのだ。

たとえば、読みたいと思う本(主にエッセイや関心のあるテーマについて書かれている、ビジネスから距離のある本)がSNS上で流れてくれば、すぐにAmazonで買ってしまうのだが、これがなかなかいつまで経っても読み始めることができない。すでに積読は10冊近くになっている。中には1年以上前に買った本も本棚に刺さったままだ。

ただ、研修で渡された課題図書は、その翌日から読み始め、ものの3日ほどで読み終えてしまった。ということは、積読が進まない理由は、仕事や家庭で時間がとられて忙しいから、ということは当てはまらないわけだ。目の前で「必要に迫られている」ものをこなすことにエネルギーを使うようになっていて、ただ目新しく面白そうだと思うものに及び腰になっているということだろう。時間はあるのだ。実際に、仕事が終わり眠りにつくまでの約1時間程度、いつもスマホでどうでもいいショート動画などを眺めて時間を溶かしているし(最近特にひどい)。

「必要に迫られるシンドローム」から最も離れた場所にいるのが、3歳児の娘だろう。突然始まる「お店屋さんごっこ」も、家の中を三輪車で疾走することも、やたらとお手伝いをしたがるところも(そして急に飽きて違う遊びをせがむところも)、彼女の中ではやりたいからやる、というシンプルな必要性しかない。「やらねばならない」などという「迫られ感」とは無縁なわけだ。

その目はいつも無邪気だ。「必要に迫られる」の対義語は「無邪気」ということなのだろう。

先日も、何度目かの研修チームによる「未来談義」だった。仕事後に集まり、議論をした後に、ご飯を食べながらもまた未来について話をしていた。必要に迫られての議論ではあるものの、普段仕事で会話することのない人たちとの会話は、脳の中の違う神経を使うような感覚で、なかなかに面白い。

議論は平行線のまま、結局のところゴールはまだまだ描けそうになかったのだが、ひとり帰り道の気分は幾分心地よくなっていた。いつもの帰り道では頭が働かずに(新しい情報を処理する能力がほぼゼロになっている)、Kindleを開いてはいつか読んだ漫画を再読したり、SNSをただ眺めるだけの時間になってしまうのだが、この日は読み始めのビジネス書を開いたり、気になる情報をスマホで調べたりしていた。

その時間を「無邪気」か?と問われれば違うのだろう。だけれど、ひとつ言えるのは、普段触れ合うはずのない人と、普段ならしない会話をしたことはたしかで、そういった意味では、少し大袈裟に言えば「予定調和を壊した夜」であったということは言えるだろう。

「必要に迫られるシンドローム」はおそらく完治することはないのだと思う。ただ、症状を緩和できるひとつの小さな対抗手段として、「予定調和を壊す」ということはあるのかもしれない。とはいえ、腰が重たくなってしまっているシンドローム中においては、難易度が高いのだけれど。でも、そのくらいなら少しくらいならできるかも、とも思える。まだまだ身体は動くのだから(夏バテではあるが)。

まずは、帰り道に乗る車両を変えるくらいのことから始めようかしら。

文・写真:Takapi