下書き

いつからか、なにか思うことがあるとX(Twitter)の「下書き」に打ち込むようになった。それは仕事で目の当たりにした問題に対する提言のような時もあるし、世の中のニュースに対する脊髄反射のような感情の時もある。

なにかしら心にひっかかったことをそのままにできないのは性のようなものだが、下書きにしたためた言葉たちを時折眺めては(結構なリストになる)、ある程度「まるまった」言葉に代えて発信することもある。というか結構やっていた。下書きに「仮置きした気持ち」を、ちょっと冷めた頭で考え、ちょっと離れた視点から見て言葉にすることで、ようやく自分の気持ちに輪郭を与えてくれるような気がして、そういう一連の作業がなんとなく心地よくて、よくやっていたのだ。なんともまわりくどいが、そんなサイクルがいつの間にか自身の中で定着していた。

そもそも一昔前までは、感じたことをそのまま言葉にしてSNSで吐露することに躊躇することもあまりなかった。世の中の変化なのか、SNSの変化なのか、それとも自身の中の変化なのか、自分の気持ちを言葉にすることに「一拍置く」ようになった。

自身の気持ちをそのまま吐露するには世の中の空気は殺伐とし過ぎているし、直情的に気持ちを吐き出すこと自体がいい歳したおじさんの所作としてまずいのではないか、というのもある。仕事の立場上言ってはいけないことが増えたし誤解を与えるようなことは言えないという制約もある(誰が見ているかわかったもんじゃない)。

そんなことだから、いつからか僕は「下書き」に入り浸るようになった。僕にとって「下書き」とは、本音のシェルターでもあり、感情のアルバムでもあるわけだ。時折下書きの「棚」を眺めては、そこに並ぶ感情をふるいにかけて、同じような言葉が並んでいたら、消し込んでまとめることもしている。いわば感情の棚卸しだ。

先日も思うことがあって、その感情を書き残すために「下書き」を開いてみたのだが、随分と久しぶりのことだということに気付いた。改めて下書きのリストを並べると、明らかに下書きの頻度が減っていることがわかる。過去分はふんだんにあるのに、最近の「お気持ち」が少ない。

忙しかったのはたしかだ。でもおそらく、日々なにかしら湧き起こっている感情が、わざわざ「下書き」にしたためる必要のないものとして処理していたということだろう。いつか自分の中を通った感情として、下書きの棚に入れる前に、自分の感情の棚卸しを勝手に行っていたわけだ。

出来事でいえば、ただそれだけのことではあるのだが、「感情の履歴」がないことになんだか心許ない気持ちになってしまった。言葉がそこにないというだけで、そこにあったはずの感情すらかき消されたような、もっと言えばそこにあったはずの自身の存在すら薄まったような気すらした。日々連綿と続く中で、自分の生活が単調で味気のないものだと言われているような気にすらなった(若干大袈裟だが)。

「下書き文化」を下手に自分に根付かせた結果、自分の生きた実感すら損なわせてしまったというのは、なんとも皮肉な話だ。

翻って、3歳の娘は下書きなどせずに、白紙があればそこに思いっきりクレヨンで線を引く。何を描こうともしていないし、どんな絵にしたいとも思っていない。そこに白紙があり、クレヨンがあるから描き出す。夢中で描き出してしばらくして、グチャグチャの線を眺めては「これはママ」「これは猫ちゃん」と後づけでそれに名前をつけて、満足気にクレヨンを置く。

その潔さは見ていてとても気持ちがいい。感情なのか本能なのかわからないが、とにかくそれに従ってクレヨンを走らせる。そして後から追いかけてくる言葉で(もしくは湧き起こってくる言葉で)、はじめて外の世界とつながる。その無垢さが羨ましくもある。

3歳児には「下書き」という概念すら、まだない。たぶん「完成」という概念もない。常に動かし続けているものなのだ。

その姿を見る度にそのままでいてほしい、とも。

10月になり、職場にフレッシュなメンバーがふたり参画した。ふたりとも転職者だ。

新しい環境への挑戦は本当にタフなことだ。これまで2回したけれど、もう一度できるかと問われれば、体力のない今の自分ではあまり自信がない(それはそれで寂しい現実だ)。それだけ大きな出来事であり、言葉通り「転機」なわけだ。

これまでの自身の2回の転職を振り返ると、完全に「勢い」だった。なんかわからないけれど、今動いたらいい方向にいくかもしれない、という感情に任せた行為だったと思う。もっと慎重にいきなさいよ、とは振り返って思うけれど、慎重になったら動けるものではないのだろうな、とも思う。

きっと今回転職してきたふたりも「勢い」に任せたところはあるはずだ。その勢いは絶対に殺させてはいけない、と思う。不安はあれど勢いのまま突き進んでほしい、と切に願う。自身の中で湧き起こる感情に向き合い、面倒でも「下書き」などせずに、いちいち言葉にしていってほしい。

言葉の数は心が動いた数であり、その数が多ければ、自身の存在を思い出させてくれる数少ない拠り所にもなる。

言葉が多ければ、次に何かを選ぶ時の助けになってくれる。言葉の数は「選択の数」なのだ。

僕がかけられるアドバイスがあるとすれば、次の一言だ。

書き出せ、選べ。

文・写真:Takapi