
2ヶ月前のこちらのコラムでも書いたが、年末にそこそこ大掛かりなリフォームをした。
築40年のマンションをリノベーションして、住み始めてから5年が経つ。当時は予算の関係で寝室と書斎に手を付けられなかったのだが、うちの娘も3歳になる。あと数年したら書斎を子供部屋として渡すことを鑑みると、そろそろリフォームをしておいた方がいいんじゃないか?と検討を始めた最中に、とある縁で引き受けていただける方とつながることができ、年内にリフォームをする運びとなった。
しかしながら、慌ただしい師走に3週間の工期(最終日はクリスマスだ)を組んだのは無謀だったと今になって思う(年が明けた今も、なんだか疲れが残っている、気がする)。
工期中は当然ながら寝室と書斎は空にしておく必要がある。寝室に置いているベッドや洋服、「物置」と化している書斎の本や雑貨類など、それらすべてをリビングにまとめるところからリフォームはスタートした。
いざ始めるとやはりかなりの量を持ち運ぶことになり(とにかく本がやたらと多い)、うず高く積み上がった荷物に囲まれる形で寝起きをすることになった。それ自体あまり気持ちのいいものではないが、朝は職人さんが早く来るため、いつもよりも早く起き、グズリ気味な娘を保育園に連れていき、猫はペットホテルに連れていく。それぞれを夫婦で分担して毎日送り迎えを行い(忘年会がある時は一度娘を家に届けてからまた出かけた)、夜はリビングでのみ過ごし、娘の寝る時間に消灯しなくてはいけないから、寝かしつけてから仕事に戻れない(戻れても蛍の光のようなか細い電気を点けてタイプ音に気につけて仕事をするしかない)。なかなか心身ともに削られる師走となった。
それはそれとして、職人さんの丁寧で綺麗な仕事ぶりを目の当たりにできたことは、ささくれた師走の心に、一服の清涼剤のような心地良さを与えてくれた。
壁塗り、家具制作などの専門の職人さんが、入れ替わり立ち替わりで日々登場してくるのだが、皆さん相当なべテランであることがわかる。年齢的にもそうだし、どこか凛とした佇まいというか、落ち着きの中にも手際の良さを感じる佇まいでわかる。
壁塗りひとつでも、5年前自分で塗ったものと比べものにならないくらい綺麗に仕上げていただいた(まぁ当然と言えば、当然なのだが、ただ白に塗るだけでもこんなに違うのかと驚いた)。毎日ヘトヘトになって帰ってきて、少しずつ部屋が仕上がっていくプロセスを見るのは、端的に言って元気をもらえた。
自らの最近の仕事を振り返れば、基本的にはAIに聞き、AIに答えを出してもらい、会社で通じる言葉に翻訳して資料を作り、そのままAIの言葉をなぞって方々に説明しているだけの日々だ(いや、さすがにこれだけではないか)。仕事をしているのか「AIの補佐」をしているのか、よくわからないほど、仕事をしている手応えが薄まっていく有様だ(仕事が楽になったと言えばその通りなはずなのに異様なほど忙しいのはなぜだ)。
そんな中にあって、代えのきかない「確かな仕事」を目の当たりにしたことで、焦燥感のようなものを感じることにもなった。自身が「代わりのきく」仕事をしているのだということが、ことさらAIの登場によってより切実さをもって、ダイレクトに訴えてくるようになった。数年後仕事はあるのかしら?と大袈裟でもなんでもなくリアルに感じるくらいには冷静に、この変化を感じ取っている。
一体これまで僕は何を身につけて、どんな貢献をしていけるのだろう。
リフォームが終わり、平常通りに戻ったリビングで、NHKの「ゆく年くる年」を眺めながら、少しだけ考えてみたが、これといって前向きな答えは浮かばなかった。きっとAIなら少しは気の利く答えを返してくれるのに。

引き続き娘の「自分でやるの!」期は続いている(要はイヤイヤ期)。何を自分でやりたくて、何はやりたくないのか、その取捨選択には、一貫性がない。でもその決断はやたらと早い。それを覚えたら得なのか?今やる必要があるのか?などと、いちいち立ち止まっては、やる理由(やらない理由)を探り、本当に必要に迫られたものしか手をつけない(もしくは何もしない)初老の僕とは全然違う。だから面白い(大いに戸惑うが)。
自分でやると宣言したものは、基本的に放っておくようにしている(何かアドバイスしようとするとそれも全力で嫌がる)。気付けば箸の持ち方を覚えていて、親が使う箸を使ってご飯を食べるようになっている。スマホで文字が打てることを知るやいなや、「自分の名前とダダとママを書く!」と、一度教えたフリック入力をすぐに覚えてしまい、自分の名前と「ダダ」「ママ」と打つようになってしまった。ブレーキのないおもちゃの三輪車は乗れるようになっていたので、本物の自転車に補助輪をつけたものを与えたらすぐに乗れるようになり、1時間でもう走らないと追いつけないスピードで漕げるようになっていた。最近はスキップも覚え始めていて、散歩は一緒にスキップをするという、なんともご機嫌な時間を過ごさせてもらっている。
娘に限らず、はじめてできた時の表情を見るのはなんとも言えずいいものだ。ニヤリともニコリとも違う、湧き上がってくる喜びに表情が追いつかない感じがとてもいい。
気になるものを見つければ、まずはやってみる。そして失敗して大泣きしては数分後にはケロッとしてまたやり直す。そのエネルギーを毎日見せつけられると、煩わしさを飛び越えて羨ましさすら感じる。

たまたまKindleのライブラリを眺めていたら、以前読んだ村上春樹のエッセイ『辺境・近況』が目に入り、ここ数日寝る前に読んでいる。以前読んだはずがほとんど(いや全く)覚えておらず、新鮮な気持ちで読んでいる。
タイトルから大体の内容は想像がつくが、シンプルに言えば村上春樹の「旅行記」である。多分に無茶な行程を追いかけながら、その時々で見たもの感じたものを、幾分粗のある文章で書かれていて、なんだか読んでいて気持ちがよく、寝る前のちょっとした楽しみになっている。
何が良いのだろうか、と改めて考えてみると、その旅の動機が軽やかだからなのかもしれない。たとえば、無人島で過ごしたいから無人島で過ごしてみた、という一編があるのだが、その動機の軽やかさたるや。でも、本来旅はそういうものなのかもしれない。「ガイドブックで入念に調べて行く場所を決めてから行くのであれば、もうそれは旅行ではなく『確認作業』だ」と、とある旅館の支配人が話ていたことがあるが、「ただ行きたいから行く」という軽やかな感じは、なんともエネルギーに満ちていて小気味いい。油断するとあらゆる方向から正解が差し出される今の時代にあって(今の僕にとって)、この軽やかさは、実はとても大切なことなのではないか、と思った。
何をやるかをその時の気分で決めている娘のように、軽やかな動機で動くことは、エネルギーを内奥から運んでくれるような気がする。趣味に忙しい人がなんだかエネルギッシュに見えるのと同じ原理かもしれない。そしてその軽やかさは人を呼び込み、また新たな楽しみをもたらしてくれる。好循環だ。
そんな四方八方の経験を蓄えていくことが、今更職人さんのようにひとつのことを突き詰めることのできない自分のような人間にとって、「代えのきかない」人物になるためのひとつの道程のような気もする。
新しい年が始まった。今年はもっと軽やかに足を伸ばしてみたい。
文・写真:Takapi
