
飲み会であれ食事会であれ、「楽しかった」と後で振り返れる場には、必ず「美味しい」がある。
あくまで「美味しい」が先。後に「楽しい」が来る。
ごくごく一般論のようなこの事実を、この年齢になってより感じるようになった。
どんなに相性のいい人でも「美味しい」のない場なら楽しくなくなるし、どんなに苦手な人でも「美味しい」さえあればなんとなかなる(これは言い過ぎかもしれない)。
年齢とともに「美味しいものを食べる」くらいしか楽しみがなくなる、というのもあるだろう。いろんな欲や興味がことごとく薄くなっていく最中にあって、食への欲だけが落ちることなく保たれているようにも思う(思春期時代をエアマックスへの憧憬とともに過ごしてしまったが故にスニーカーへの欲だけは残っているが)。
とは言え僕個人はグルメというわけでは決してない。青春時代に食べ尽くした「すた丼」の看板を見れば、思わず涎で口の中が満たされ、後悔するとわかっていてもいまだに大盛りを頼んでしまうし、新しいお店を開拓するのが苦手だから、家族とご飯に行く時も、オフィス近くのランチの場所を探す時にも、ついついいつも行っているお店を選びがちだ。
そういう訳で、日々美味しいものを求めて街中を闊歩するようなグルメでは全くなくて、単に「誰かと会話をする場」には「美味しい」が必要になってきたということだ。
理由はシンプルで、年齢を重ねるほど、会話自体に新鮮味はなくなってくるからだ。職場の連中で集まれば、大抵愚痴やら噂話が中心になるし、久しぶりに会う人だって「最近どう?」から入り近況報告をしばらくし合うことになる(それらはそれらで十分楽しいことは楽しいのだけれど)。
初対面の人と会話をするにしても、通過儀礼のように「それ用」の質問サンプルを拵えながら話をするくらいには大人になってしまっているし、「回答サンプル」も用意し合っているから、ある程度「有意義な」会話はできる。でも長時間話をするとなると、やはり「会話だけ」では間がもたないのだ。

いや、そもそも会話が難しいと感じるようになったのはいつからだろうか。
この年齢になると、自慢話はするな、説教はするな、昔話はするな、という暗黙のルールが発令されるようになる。職場では若手の話を聞くことに重きを置くよう具体的に指示すら受ける。自ら話すことはもうその辺にして聞き役に徹しなさい、そうしないと嫌われますよというわけだ。
「傾聴する」といえば聞こえはいいが、個人的にはこの傾聴という言葉がなんだか苦手だ。耳を傾けるという行為が、どうも相手との間に薄いフィルターの存在を感じてしまう。普通に相対すればいいじゃないか、と思うが、どうも時代はそれを許さないらしい。
コロナ禍にお店に置かれた透明のシートよろしく、常に会話にそんな仕切りがあるせいで、なんともぎこちなさを残したまま会話をすることが増えた。というかそれが当たり前になった。会話自体はスムーズに進むが、それはどちらかと言えばただの予定調和とも言える。
お酒の場というのは、いわゆるそういったフィルターを「乾杯」の一声で破る場として重宝されてきたのだろうし、酒のもつ「弛緩性」が会話の滑らかさを生むと思われてきたのだろう。それはそれでたしかに機能していたと思う。
けれども令和になりお酒の場が当たり前ではなくなったし、自身も加齢とともに酒に頼れるほどの体力はない。
だからこそ「美味しい」をより必要としている自分がいるし、「美味しい」を素直に感じられることは、大人の(初老間近の)嗜みであり礼儀なんだろうと思うわけだ。

話を「美味しい」の現場に戻そう。
相手を目の前にしながら、ふたり(とは限らないけれど)の間に美味しい料理があったとしたら、これだけで会話が生まれるのだ。「美味しい」の交換はつまり「嬉しい」の交換だ。美味しい驚きを口にしたら、ほんの少し上がった心拍のままに言葉がどんどんついて出てくる。そしてその言葉の軽やかさがまた次の会話を生む。有り体に言えば、「美味しい」があるだけで会話が弾むのだ(なんだか当たり前の話をしているだけな気がしてきた)。
ちなみに「美味しい」というのは大枚叩いて背伸びして入るような高級なお店というわけではない(いや、行けるなら行きたいけれど)。更に言えば、「美味しい」は味わいだけとも限らない。大体味覚は個人的なものだ。味わいだけでなく、そのお店の雰囲気も「美味しい」になる。それも綺麗でお洒落な雰囲気かと言えばそういうことでもない。古びたお店でも長年座り続けたソファのようにふと落ち着く雰囲気というのもある。もっと言えばお店の人と話せるようなお店なら、お店の人との会話も「美味しい」の重要なスパイスになる。
そうなってくると「美味しいお店」の選び方というのも、これまた難しいものになってくる。Instagramでは著名人やら界隈の人が行っているお店は否応にも行きたくなるし、なるべく失敗しないように事前にgoogle mapのレビューを見て選んでしまう。
そうは言っても既に伝えたように「美味しい」は個人的な感覚によるところが多いから、こういった「調査」を経て入るお店は、どうしても「答え合わせ」をするような感覚になってしまう。食事をしていても、Instagramで投稿した人やgoogle mapでレビューした人と同じ感想を持っているだろうか?と、目の前にいる人よりもインターネット上の見知らぬ人と会話しているような感覚になってしまって、どうも会話が鈍くなるような気がしてくるのだ。どうもよくない。
この間は仕事帰りに、一緒にいたメンバーと食事をして帰ろうと、仕事先をプラプラ歩きながらたまたま通りすがりのバルに入ることになった。店先に出された黒板に書かれたメニューが旬のものを使った感じがして良さそうな予感がしたのと、店主が店先から明るく声をかけてきてくれて(決して呼び込みのような感じではなく)誘われるように入ってしまったのだ。
気さくな店主との会話を楽しませてもらいつつ、何の事前情報もなくメニューを眺め(情報がないと結構真剣になる)、メンバーの好みを言い合いながら(この時点で少し楽しい)、選りすぐった後に供された料理を食べた時は、なんだかとても美味しく感じたのだ。その「美味しい」のおかげで、普段以上に楽しい会話ができた気がした。また行きたいお店になった。
改めて思い返すと、誰かに誘ってもらって、その人の行きつけなりおすすめに連れて行かれた時の方が「美味しい」と感じることが多い気がする。それは「美味しい」を知っている友人に恵まれているというのもあるのだけれど、誘われた飲み会の場所は事前情報が入ってこないから(店名は教えてもらって行くにしても、事前にgoogle mapで調べるようなことはしないから)かもしれない。
やはりこれからも誘ってくれる友人を待つことにしよう。
文・写真:Takapi
