美しさ

実家は中央線沿いの郊外にあって、たまに娘を連れて帰省する時は、昨年から運行が始まったグリーン車に乗ってのんびり行くことにしている。

つい先日も父親の墓参りのための帰省で中央線のグリーン車を使った。グリーン車は2階建で、娘のその日の気分でどちらかを選ぶことになる。ついでに娘の隣に座る人も気分で選ばれる。その日は2階を選び、私を隣に指名してくれた。

席に着けばお菓子が食べられるとわかっているから、座るなりそそくさと自身のリュックから、この日のために準備したプリングルスを引っ張り出しては蓋を開け始めている。電車の発車とほぼ時を同じくしてポテトチップスを数枚ひっぱり出してかじり出しているくらいには手際がいい。

街並みがよく見えることもあって、個人的にもこの2階席は気に入っている。電車に乗るとついついスマホばかり見てしまうのだが、このグリーン車の2階席に座ると、視線が外に行く分、束の間時間のネジが緩んだような感覚になる。100キロ近い電車の車窓から眺める景色に「緩み」を感じるというのは、なんとも言えない(笑えない)趣があるが、まぁそういう時代ということだろう。とにかく、2階席に座る束の間の時間は心拍が緩む良い時間であるというわけだ。

その日も隣に座る娘のことを気にかけながらも、都心から郊外へ向かって移り変わる景色を眺めるともなく眺めていた。電車が走り始めて、高層ビル群から街並みに視線の先が変わってきたところで、ちょうど見頃を迎えた桜が数秒ごとに視界に飛び込んでくるようになった。

晴れた日の、陽を浴びた街中に映し出される薄いピンク色は、やはりどこか琴線に触れるようで(日本人のDNAにきっと刻み込まれている)、言葉にしようのない感情が湧き起こる。ありがたさにも似た感情でありながらどこか寂しさも伴っている。そして咲き誇る(まさに“咲き誇る”とは桜にしか見合わない表現だということも感じながら)その姿に「美しい」と思えることに小さな嬉しさも感じる、そんな感情たちがいっぺんに押し寄せるような感覚になる。

ここまで満開に近い桜の木をいっぺんに流し見をするような経験ははじめてで、それはそれで少し高揚もする。ただそれ以上に桜の木が多いことに若干の驚きを感じた。ほんとにどこもかしこも桜なのだ。

小さな公園の真ん中あたりに堂々と咲き誇る桜(その下では午前中から酒盛りしているだろう団体とブルーシートが見える)。
細い川沿いを彩る桜並木(通る人一様にスマホのカメラを花に向けている)。
全ての学校に植えられている(と言っていいだろう)出会いと別れを演出する桜(森山直太朗の「さくら」がリフレインする)。

改めて桜がこの国を象徴する花であることを思い知った格好だ。

咲き誇る桜を斜め上から眺めながら、一年のうち一週間程度しか見ごろがないこの木を、貴重なスペースの植栽として選ぶというのも、コスパなのかタイパなのかわからないが、鑑賞という点においては効率の悪い植物を選んでいるんだな、などと罰当たりなことが頭を過りもした。

365日のうち、本当に1週間程度、天気のことも考えれば数日の「美しさ」のために存在する桜。花が咲くまで、そこに桜の木があることすら忘れ去られていて、それでも咲き誇ったなら人が集まり思わず手を合わせたくなる、そんな軽薄に「ありがたがられる」桜。

さらには当然ながら、それら桜を守るために働いている行政の人たちや専門家もいて、なんというか、それら一連の所作は、効率や節約が最優先される今にあって、ともすれば無駄なことのようにすら映る。風情と呼ぶにはあまりにも手間がかかっていることに今更ながら気が付く。

でも、と思う。そんな刹那に過ぎるこの美しく無駄なものを、僕たちはいつまで抱えていられるだろうか?と。つないでいかなくてはならない、残さなくてはならない、とも。

それは責任感とも焦燥感とも違う、切実な義務感のような感情だ。その感情はどこから湧き起こったのかはわからない。ただその義務感が薄まった時が、何か大事なものが損なわれた時なのだということはわかる。

そしてこれは桜の話だけではないだろう。国でも会社でも組織でも、街でも家族であっても、なにかに突き動かされるように(それこそDNAに組み込まれているかのように)大切なものを残そうと義務感でつながっていくことこそが、文化というものなんだろう。

その連なりを「美しい」と思えるようでいたい。
ここ最近の世の中の風潮を見ていると少し自信がなくなりそうだけれど。

娘の目に桜はどう映るのだろうか?隣に目をやればポテトチップスをしまい、今度は「危険生物」という図鑑に夢中だ。まだわからなくていい。でも「美しい」と感じている父親の空気を感じ取ってくれたらいいな、そんなことを思った。

降りる駅に近づき速度を落とし始めた頃、車窓いっぱいに桜が広がる瞬間があった。娘もそれを見ていて、気付けば自然と手を桜の方に差し出していた。その手は「美しさ」の端緒のように思えた。

たぶん大丈夫だ。
「美しさ」は、文化は、きっと続いていく。そう思った。

文・写真:Takapi