
GWに入る直前、先にお暇をもらって家族で沖縄に旅行に行った。
昨年も同じ時期に沖縄に行った。2年連続だ。ついでに言えば前回と同じホテルに泊まることにした。とても居心地が良くて(時間のネジがゆるむような空気感があった)その上プールもあるから、娘が遊ぶ場所に困らないだろうという理由からだ。
昨年このホテルで入ったプールが娘にとって生まれてはじめての泳ぎだった。水がこわかったのかはじめて着る水着の何かが嫌だったのか、ぐずり散らかし、プールに入るまで小一時間くらいかかってしまった。とはいえ、プールに入ればとても楽しそうで、なかなか帰りたがらないほどにすっかりはまっていた。
今年もそのプールがあるということで、娘はこの沖縄旅行を楽しみにしていた。1ヶ月前くらいから「あと何回寝たら沖縄?」という会話をほぼ毎日のようにしていた。さらには3ヶ月前くらいからプール教室にも通い始めたこともあって、娘にとっては旅行というよりはプールのための遠出という感覚の方が近かったかもしれない。
日頃の行いのおかげなのか、ちょうど僕たちが沖縄入りしている日程はすべて晴れてくれた(沖縄に着く数時間前まで豪雨で、帰宅翌日から雨模様の天気予報だった)。そんなことだから、初日チェックイン直後から最終日のチェックアウト直前まで、全日程プールでみっちりと遊ぶことになった。
今年の沖縄は昨年より幾分涼しく(東京と変わらないくらいの気温)、プールの水は結構冷たかった。水に入ることを渋る親を脇目に娘はまったくもってお構いなしで、僕の手を引っ張るようにどんどんプールに入っていく。
はじめてのプールだった去年は、ただ浮き輪に浮かんで過ごしていただけだった(それだけで楽しそうだった)が、プール教室で毎週泳いでいる今となっては、格好の練習場である。プール教室と同じくアームリングだけ着けては、覚えたてのバタ足を繰り返し、「見て!」と大はしゃぎの様子だ。
たった1年で、これほどわかりやすく成長しているのを見るのはなんとも小気味がいい。そういえば昨年はまだオムツだったし、車のチャイルドシートも嫌がって車に乗せるのも一苦労だった。もう数年したら、手もつながずに歩く(というか一緒に歩くことすら断られる)ようになるのか、と想像するとなんとも感慨深いものがある(寂しくもある)。
僕は僕で1年経って何かが変わったかと問われれば、四十肩で泳ぎに支障をきたすようになっていたり、レストランのステーキが食べきれなくなったり、娘の寝かしつけとともにそのまま寝てしまったり(昨年は寝かしつけのあとホテルのベランダで夜風を浴びながらオリオンビールを飲んだのに)、と成長とは呼べないまでもこちらはこちらでしっかり変わってはいるようだ。
日々できることが増えていく娘の傍で、だんだんとできないことが増えていく親が横並びで日々過ごしているという事実に、なんとも面食らってしまうが、もしかしたら、できないことが増えているのではなく、これまで「できていたこと」を、徐々に娘に「渡している」ということだけのことかもしれない。そんなどうでもいいことを、夕方のプールサイドのベンチでビールを飲みながら、ぼんやりと思い巡らせるくらいには、沖縄の空気はのんびりしていた。

成長。それはもう金輪際訪れるものではないと知ってからだいぶ経つ。
仕事でも、新しいことをやるための反射神経というか、瞬発力のようなものが本当に出なくなった。足りない筋力を補うために着けるサポーターのように、今ではAIに自身の衰えた部分を補強してもらいながら、誤魔化しながらなんとか食らいついている状況だ。
それでも筋力が「失われていく」という冷酷な事実に対して、最近はあまり焦燥感のような感情を抱かなくなってきた。それはそれでまぁいっか、と開き直っているようなところがある。娘に対して「渡している」と都合よく考えているように、職場のメンバーに対しても同じようなことを考え続けている(ちゃんと渡せているかはまったくもって自信が持てないけれど)。それはそれとして、自分の「持ち物」にもうほとんど執着がなくなっていることに少しばかり驚いてもいる。
この心情の変化は「成長」なのだろうか。単に加齢による疲れなのかもしれない。ただ「渡す」ことと向き合っていると、不思議と「次は何をしようか?」と自分自身に対して矢印を向けて考えるようにもなってきているから面白い。
とは言え、なにか新しく始めたいと思えるものを見つけてはいない。それでも、「渡した」分できた余白で、新しい筋力をつけたいと思っている感覚はある。小さく漲ってきているような、そんな感覚がお腹の底の方に揺蕩っている感じがある。若い頃のように鋭い筋力を付けることは叶わないのはわかっているし、筋力を付けるにも時間は余計にかかることもわかっているけれど、まだ「鍛えたい」と思えていることが少し嬉しい。
最近は寝る前に、英語のアプリを立ち上げてはAI相手に英会話を始めている。先日受けたTOEICの結果が中学生以下のレベルであることに辟易としたというのもあるが、これもひとつの新しい筋力づくりのようなものなのかもしれない。とはいえ、自身のレベルが低過ぎるせいで、いまだ挨拶レベルの英語しか発話していないことには呆れているが、それでもなんだか楽しい。就寝前の数分の習慣とも呼べない小さな試みだが、今のところ楽しんでいる。
過去に頑張って付けた筋力は、その筋力を付けるまでに苦労していればしているほど、なかなかその筋力をほぐすことができずに酷使し続けてしまうことがあるようにも思う。使い続ければ当然筋肉は硬直する。そして当然ながら硬くなった筋肉は弾力を失う。硬直とはすなわち執着であり、弾力とはすなわち寛容さであり柔軟性だ。
硬直した筋力を使い続ければ、無理がたたって怪我だってする。この年齢になれば、その怪我は治りづらく長引いてしまう。この年齢に必要なことは、筋肉をほぐすこと、自身が付けた筋力のノウハウを誰かに渡すこと、そしてほぐれたところに新しい筋肉をつけていくことなのかもしれない。
小さく、緩慢な成長のために。新しい筋肉痛のために。
しばらくは渡し続けることにしよう。

文・写真:Takapi
