
ふだんからお世話になっている先輩との飲み会があった。数日前から、その日はおろしたての服でいこうと決めていた。手元にあるなかでいちばん気に入っている服であり、まぁ端的に言えば自身の中では「おしゃれに見える」服を選ぶことにしたというわけだ。
服装に気を遣わなければいけない雰囲気を醸すような方ではまったくなく、とてもカジュアルに会いに行ける方だ。飲み会のお店も敷居の高いお店でもなく、どちらかと言えば、服装に気を遣って入ってはいけないような、昭和を引きずったままの大衆居酒屋だ。そういった意味では、服装に気を遣うことを自発的に決めていることになる。
ふと、そういえばこんな風に服装に気を遣って会いに行く人ってどのくらいいるのだろう?と、まさにお気に入りの服を着て、集合場所の大衆居酒屋に向かう道すがら気になってしまった。
すぐには思いつかなかったが、年に数回会う友人たちの顔が浮かんだ。これもほとんど同年代の気の置けない友人たちで、会えば大抵下世話な話に終始するほどで、むしろ服装を気にする必要がない人たちだ。それでも不思議と話していると仕事や人生における発見をさせてくれる人たちでもある。近日中に彼らに会いに行くことがあれば、おそらく同じ服を選ぶだろう。
服装に気を遣う相手と、そうではない人との分水嶺はどこにあるのだろうか?お店の格式や会合のシチュエーションなど、要はTPOに合わせた服装を選ぶというのは年相応にしているつもりだが、そういうことではなく「自身のお気に入り」を纏うというのはちょっと違う感覚なのだ。一体どういうわけだろう。
仕事で毎日会っているような馴染みの人たちではなく、たまにしか会わない人だから「よく見せたい」というのはありそうだ。でも、実際には年に数回しか会わない人たちでも服装に気を遣わない人もいる。というわけで、それだけでもなさそうだ。
なんとなくわかりそうでわからない。それはそれとして、そんな風に服装に気を遣って会いに行く人がいるというのは、なんとも嬉しいことでもある。この年齢になって、自身の友好関係も徐々に狭くなり、服装に気を遣ったとて、なにも変わらないような間柄の人が増えている中で、服装に気を遣えるくらいの、ちょっとした緊張感のようなものが漂う場所があるというのは、心身ともにだらけ始める中年にはいい刺激である。
その先輩との飲み会は、話が幼少期まで遡りながら、僕自身をあらためて点検するような機会になった。これから何を目印にして歩いていくべきか、その時に何を持ち物として残して何を捨てるべきか、ぼんやりとだがそんなことが見えるような飲み会になった(若干後半記憶がないけれど)。
良い飲み会だった。

「緊張感のようなものが漂う場所」ということであれば、3ヶ月前くらいから新しい仕事が始まっている。
数年かけてコツコツと積み上げてきたものの棚卸のような仕事で、最近の仕事の中ではなかなかに規模も大きく、緊張感漂うプロジェクトになっている。
この仕事が始まるにあたり、新しいパートナーを採用することになった。既に10回近く打ち合わせをしているが、毎回少し背伸びをするような心持ちで打ち合わせに臨んでいる。
彼らが威圧的であるとか、難解なものを持ち込んできたりするというものではない。ただ、打ち合わせをする度に感じ取れるのは、彼らの話の端々や佇まいから滲み出てくる、長年かけて積み上げてきた実績への自信と、プロフェッショナルなこだわりで、その矜持とも言える所作に触れる度に、なにか「重み」のようなものを感じ取っているからだと思う。
そういった相手と対峙するわけだから、それ相応の覚悟をもって話し出すことを自らに課すようになる。自然と空気は張り詰めていくし、幾分背伸びをするような緊張感が生まれる。
とは言え、そんな打ち合わせは久し振りのことで、個人的にはいっとう面白く、毎週の打ち合わせが楽しみになっている。実際に毎回充実した気持ちで打ち合わせを終えている(相手は疲弊しているかもしれない)。
ここまで書いて、この打ち合わせに臨む時の気持ちと、先ほどの「服装に気を遣う人たち」に会いに行く時の心持ちは同じようなものであることに気が付いた(実際にこの打ち合わせに臨む時も、服装に気を遣っている気もする)。

ふたつの共通点は、字面だけを追えば「緊張感がある」ということになる。でもそんな単純なことでもない。
うまく言葉にできそうにないが、拙い語彙で表すとすれば、彼らから「もらい受ける」ものへの敬意のような感情と、僕自身が内奥を探り尽くしたうえで「差し出せる」ものを渡そうとする熱量のような感情が混ざったような感覚とでも言えるだろうか。分かりづらいので、端的に「分かち合いたい」気持ちということにしよう。
「もらい受けたい」と思うことと「差し出したい」と思うことが、同時に存在する機会や相手というのは思いの外少ない。更に言えば年齢とともにどんどん少なくなっていく。そして大袈裟なことを言えば、そういう関係は、生きていく上で糧にも拠り所にもなってくれる。
なぜか。それは年齢とともに「もらい受ける」「差し出す」には上下の関係が紐づかれてくるからだ。もらい受けたものをまた「次」に渡していくということが「大人になる」ということで、つまりは「良し」とされる振る舞いなわけだ。
そう考えると、「分かち合いたい」と思える関係への希少さと貴重さを本能的に感じ取るがあまり「気を遣う」という、これまた「大人の所作」で関係を保とうとしているのかもしれない。なんとも回りくどいが、そういうのも悪くないな、とも思う。
そんな関係性に最大限の感謝と敬意をもって、これからも存分に「気を遣って」接していきたい所存だ。
文・写真:Takapi
