
娘は何かにつけて手伝いたがる。
朝食のオムレツを作ろうとしたものなら、「作る!」という宣言とともにキッチンに駆けてきては、ボウルに卵を割り入れ、かき混ぜ、バターをフライパンに引くところまでやり切る。その一連の所作をいつも半歩後ろで薄目で眺めている。薄目で眺めるのは、しっかり見てしまうと、その動作の危なっかしさに、どうしても「気を付けて」とか「手伝おうか」などと口を出してしまいそうになるし、言ったものなら娘の逆鱗のスイッチを押してしまうからだ。お互いの精神衛生上のためにも、薄目で眺めるくらいがちょうどいいわけだ。
朝のオムレツのみならず、コーヒーの豆挽き、洗濯物干し、植物の水やりなど、大人の習慣に近いことを狙い撃ちして「やる!」が発動する。不思議だ。
いわゆる「やるやる期」の娘なわけだが、その果敢さを損なわせないように、基本的にはやらせてあげることにしている。とはいえ、やらせたらやらせたで、「朝のオムレツ」のように、ちゃんと見てしまうと口と手を出したくなるし、逆に目を逸らすものなら「ちゃんと見て!」と詰められてしまう。
そういったことだから「薄目」がちょうどいい。ちょっと距離を置いてなるべく娘に「ピントを合わせない」で眺めていたら、娘から「手伝って」が出るまで、比較的心穏やかに待てるようになってきたところだ。
「木に立って見る」と書いて「親」になるという、その漢字の成り立ちの意味合いがようやくわかった。ような気がする。
最近は「やるやる」だけではなく「教えたがる期」でもあるようで、保育園で折り紙の手裏剣の作り方を習ったものなら、「一緒に作ろう」と折り紙を渡しながら、「まず半分に折ってね」などと、いっぱしの先生になろうとする。当然教えてもらう立場なので、初見のごとくしっかりと学ばせていただく姿勢でその場に臨んでいる(手裏剣の作り方は忘却の彼方でもあったので、本当に教えてもらう格好になったが)。
手伝う、手伝ってもらう、教える、教えてもらう、という関係性の作り方を娘は今身をもって学んでいるところなのだと思う。でもたしかに、仕事でも友人でも家族であっても、大人になってもなお、いや、むしろ大人になるほどにより大切な所作になっている。そんなことを考えると、今の娘の一連の挙動に対して妙な責任を感じてしまう。
それはそれとして、ひとつずつできることが増えていく娘を眺めるのは痛快だ。なにより「できた」時の顔はなんとも言えずいい。そこだけはピントをしっかり合わせて見ておきたい(若干老眼が進行してピントが合い辛くなってきたけれど)。

仕事面では、今年は新しいことに挑戦している年である。とは言え、立場的には「挑戦させる」側にいるので、メンバーの一挙手一投足に対して、どこまで関与すべきか、つまりはどこで口を出し、手伝い、教えるか、日々悩んでいるところでもある。
新しい仕事なのだから当然難しくもあり、メンバーが頭を抱えている様子は手に取るようにわかる。とは言え、子どもと違って大人の世界では気軽に「見て!」「手伝って!」と言われないが故に、余計に手と口の出しどころが難しい。
仕事の状況を粒さに見れば見るほど、当然ながら言いたいことも増えてくる。しかしながらそこで口を出せば、それが正解のように見えてしまい、僕の言ったことに「合わせる」ような仕事になってしまう。
ただそれでは、当然ながらいい仕事にはならないし、本人にとってもいい経験にならない。そもそも仕事は一発で完結する正解は用意されていないわけで、ひとつひとつの日々の小さなアウトプットで「正解にしていく」しかない。正解がないということは明確なゴールもないわけで、そういった意味では「できた」と喜ぶことも自分自身の判断に委ねられているとも言える。
と、まぁこんな具合に頭がグルグルとして暗中模索状態なのだが、最近は娘に対する「薄目」を仕事でも使うようにしている。これがまたなんとなく良さそうな具合だ。
近過ぎず遠過ぎない距離で、少し引いた目でメンバーの仕事を見ていると、細かく見ていた時に目についてしまっていた仕事の粗が身を潜め、代わりにその人ならでは仕事の取り組み方が見えてくるようになったり、その人ならではの得意なことが見えるようになってきた。
さらにはその距離感にいるからか、声をかけられやすくなってきているようにも感じるし、幾分伸び伸び仕事をしているようにも感じる。娘も、じっと見られているよりも、少し距離を置いた「薄目」の方が集中しているようにも思うし、そういうことはあるのかもしれない。
娘に教えてもらうことはたくさんある。
そしてこれからも薄目で見守っていきたいと思う。
文・写真:Takapi
