わかる

腕時計を新調した。
いわゆるスマートウォッチに替えたのだが、「健康機能」がなかなかに良くて、睡眠の状況からストレス度合いがわかったり、「ボディーバッテリー」という体力残値がわかるような機能があったり、睡眠のアドバイス(今日は何時間寝てください)なんかもくれる。

これを着けたことで、朝起きた時にその日のコンディションを見る癖がつくようになった。深酒の翌日はボディーバッテリーが低いままだったり、睡眠時間が削られている時は「今日はイライラするかもしれません」なんてありがたい警鐘まで鳴らしてくれる。

ついでに21時くらいになると、その日の状況をレポートを時計のディスプレイに表示してくれる機能もあって、先日は仕事のパートナー企業との懇親会の二次会の最中に「今日は過酷な1日でした」と表示されたのを隣の人(仕事のパートナー企業の方)に見られ、若干気まずい空気が流れたりもした(以降通知は切るようにした)。

そんな感じで、ここ最近はこのスマートウォッチが示す数字やアドバイスが生活の中心に置かれるようになった。「体調が良い」と示される日は、やはりなんかうまくいきそうな気もするし、実際に頭の回転が早くなっているような気さえしてくるようになった。反面「イライラする日」と示される日は、もうそういう日だと割り切ってペースを落として過ごすようにもなってきている(仕事でうまくいかないのも体調のせいだと思うほどにまでなった)。プラシーボ効果とも言えるし占い的だとも言える。

良くも悪くも、自身のコンディションがわかるというのは、慌ただしく目の前のものを片付けることを余儀なくされる毎日の中において、どこか冷静さを取り戻させてくれる効能があるように思う。

言ってしまえば健康に目を向けざるを得ない年齢になってきているというわけだ。時を同じくして、歯医者にも通うようになった。生まれてこのかた虫歯になったことがなく、歯医者に行ったことも、小学生の頃に一度あったような気がする程度なのだが、そろそろケアをしておく年齢であることを妻に指摘され、近所のデンタルクリニックに足を運ぶことになった。

行くと、レントゲンを撮ったり細い針で歯茎をつつかれたりして、結構精密に検査してくれた。虫歯は変わらずないようだったが、歯石の量が多く、歯茎も弱ってきているとのことで、このまま放っておくと云々(正直忘れてしまった)ということを言われ、初回からそこそこ痛い思いをする羽目になった。さらには歯並びも治した方がいいと諭され、ともすれば40代中旬に矯正をする必要が出てくる可能性すら出てきた。

大して丁寧な歯磨きをしてこなくても虫歯もなく過ごせていただけに、ただリスクを煽られることにはいくばくかの眉唾感を感じてしまうのだが、実際にレントゲンやら出てきた数値を見せられたことで、自分の状態を正しくわかったような気がして、少なからず安心したのはたしかだ。

何より自身の歯並びは中学生くらいからコンプレックスだった。この年齢になって忘れかけていたが、歯医者に通ったことでコンプレックスを解消できるかもしれない機会をもらえたと、ちょっとだけ高揚もしている。

マネージメント研修が3ヶ月前くらいから続いている。

組織におけるリーダーシップ力を上げるための研修なのだが、端的に言ってしまえば、メンバーとの適切なコミュニケーションを通じて個人のモチベーションを向上させ、その結果組織全体がより高いパフォーマンスを上げるための、リーダーとしての振る舞いを学ぶ研修だ(言葉にするほど複雑に見えてくる)。

昨今の「ハラスメント」シンドロームに罹っている世の中において、どうしたら仕事がうまく回るのか、どの企業も悩んでいるということなんだと思う。「同じ釜の飯を食う」でうまくやれていた(と思っていた)古き良き時代はとうに去り、ひとりひとりに“適切な”向き合いを求められる時代だ。それこそスマートウォッチのごとく、冷静で的確なアドバイスがリーダーに求められるわけだ。やれやれ。

ただ「若い子には丁寧に接しましょう」といった精神論的な研修なら意味がないよな、と斜に構えていたのだが、実際に受けてみるとほとんど心理学に近いような内容で、勉強に飢えていた自分としては大変面白い。

実際の現場にあるようなケーススタディをもとに、調査や論文に裏打ちされた論理から解決策を導くようなプロセスで教えてくれるので、これまでいろんな場面でモヤモヤしていたことに霧を晴らしてくれるような感覚になる。

仕事のやりとりやら人間関係でうまくいかないことには、ちゃんとした摂理があるとわかれば、実際にそういう場面に遭遇してもそういうもんだと割り切ることができる。いちいち途方に暮れて足を止めることなく、次に取るべき手段を探すことができる。

そんなにうまくはいかないとは思うものの、知ることで自身の持ち札が増えるのは、とかくスピード感の上がった今にあって、とてもありがたい。

わかることは安心でもあり、割り切ることでもある。

「分かる」という漢字をあてている理由は、まさにそういうことなんだろう。

わからないことをわからないままで置いておく、わからないを楽しむという、一見知性的にも見えるいわば自己満足的な振る舞いが、世代的に厳しくなって久しい。「わからない」では「責任を果たさない」と同義であると受け取られる世代になった。

とはいえ、「わかりきる」ことなどない、わかった気には絶対にならないという前提に立った上で、少しずつでもわかっていけるように目を凝らし、足を動かしていくことは、結果としてわからないものを楽しむことになるということもわかってきた。

わからないことを楽しむために、「わかる」ことから逃げない。
そんなことを最近は思うのだ。

文・写真:Takapi