子どもの頃から感情が顔に出るタイプと言われてきた。
「もう話飽きてるでしょう?」
「あ。またふてくされた」
こんなことを幼少期から大学生くらいまで言われ続けてきたように思う。
30代も後半に差し掛かり、それなりに訓練をして表情をコントロールできるようになったつもりでいるけれど、時折「わかりやすい人」と評されることがあることを鑑みると、大して変われていないのかもしれない。
そんなシンドロームを抱えながら生きているわけだけど、人の運だけはいいようで、一緒に仕事をする人や友人にはいつも恵まれている。
不思議と僕のまわりの友人たちはゆったりと構えて見守ってくれる人が多く、さらには稀に僕のことを「いい人柄だね」と褒めてくれさえする人さえいる。
先日も、とある案件を一緒に進めている職場の先輩に「君の人柄の勝利だねぇ」と言われた。
難しい案件にも嫌な顔ひとつ見せずに協力してくれた方々の話をしている時だった。「本当にありがたいことです」という僕の言葉を受けて先輩から出てきた言葉がそれだった。
いい人とも、人格者とも、人たらしとも違う、人柄(ついでに言えば、いい人と言われたことは一度もない)。
人柄ってなんだろう。
僕が所属している職場の、立場も年齢もだいぶ上の方に取材をする機会があった。
取材の依頼メールを送るとすぐに快諾の返事をいただいた。翌日には、事前情報として取材内容に関する資料や過去の出来事をまとめたドキュメントを送ってくれた(パワーポイントで15ページくらいあった)。
その後もまるで広告代理店の営業のようなスピード感で、数回に分けて事前情報を届けてくれた。文面もとても丁寧で、メールを受け取る度にパソコンに向かって頭を下げる日々だった。
迎えた取材当日。端的に言えばその場はとても熱いものとなった。まるで2倍速のビデオを見ているかのような早口で、取材陣が置いてけぼりになるほど1時間休みなく喋りまくっていただいた。
手元を覗けば、ノートと手帳が開いていて、そこにはビッシリとメモが書かれていた。間違えのないように、漏れがないようにと、時折視線をノートに落とすのを見る度に、身が引き締まるとともにありがたさで胸がぎゅうっとなった。
僕からもいくつか質問をさせていただいた。その中で最近読んだ書籍の話をした。聞いた話と通じるものがあったから紹介したのだけど、その方は書籍名を聞くやいなやすぐに手元のノートにメモを書き込んでいた。
取材が終わった時にはその方の額にはうっすらと汗が滲んでいた。よほど消耗したのだろう、立ち上がる時にはフラッとしたようにも見えた。その拍子で手帳から付箋が数枚落ちた。慌てて拾ったその付箋にも隙間のないほどメモが書かれていた。
取材部屋から退室される際、僕ら取材陣に向けて「期待しています」とかけていただいた声はガラガラに枯れていた。
昨年の夏頃オープンした近所の焼き鳥屋さんが、このご時世もあり、昼間に鳥蕎麦を振る舞うことにチャレンジしていた。Instagramで見かけた写真があまりに美味しそうで、平日の昼間に伺うことにした。
このお店に入るのははじめて。入ればカウンターばかり10席ほどの小さなお店だ。店主は予想に違わず少し強面の兄ちゃんといった風情だった。眉間にシワを寄せながら鍋と向き合う背中を眺めながら(実際に表情は見えていないけれど、背中を見ていると眉間にシワを寄せているのが想像できた)頼んだ鳥蕎麦を待つことにした。
5分ほどで鳥蕎麦が出てきた。一口すすって期待を超えるその美味しさに思わず「うまい…」とこぼしていた。隣を見れば妻も目を見開いている。どうやら同じ感想のようだ。
美味しい料理はつい箸が進んでしまうもので、黙々と麺をすする度に、「うん、うまい」「あー、いいわ」などと妻とユニゾンしていたら、ものの数分で食べ終えてしまった。
食べ終えて一息ついた頃、それまで黙々と鍋に向き合っていた店主がクルッと僕に向き直り「足りましたか?」と聞いた。
あまりに突然だったので何について聞いているのか瞬時にわからず、呆けた顔で店主の顔を見返すことしかできなかった。店主の視線が僕が飲み干したどんぶりに移ったことで、ようやく鳥蕎麦の量のことだとわかった。
改めて店主の顔を見上げると、強面とは裏腹にとてもピュアな目をしているものだから(フレンチブルドックが頭に浮かんだ)、しっかりと答えてあげなくてはと思い「すでにもう一杯食べたくなっているくらい美味しかったんですけど、お腹はいっぱいになりました」と返せば、クシャッと表情を崩して「あぁ、よかったです」と笑った。
そこからは、本来夜から営業する焼き鳥屋がランチ時の鳥蕎麦提供にチャレンジした理由や、現時点における鳥蕎麦の課題点について熱っぽく話してくれたり(課題はないように見えたけれど)、ふだん提供している鶏の質へのこだわりなどを丁寧に教えてくれた。話し始めると店主の目はますます「フレンチブルドッグみ」を増し、ついでに言えばとても楽しそうだった。
このご時世でお店は大変な筈だ。それでも目の前の料理の話となると無心になってしまう人のようだ。ひとしきり話した後、今度は少し離れた席の人に鷄チャーシューの作り方をレクチャーしていた。
「落ち着いたら夜にじっくり楽しみに来ますね」と伝えて僕らは店を後にした。
人柄は「滲み出る」ものと言う。でもこの年になってわかってきたのは、人柄は「漏れ出てしまう」ものだということだ。
その人自身が心血を注いでいること、こだわり抜きたいと思っていること、それをわかってほしくて無心になって伝える愛くるしい姿に、僕らは「人柄」を感じてしまうのかもしれない。
時に熱が入リ過ぎて置いてけぼりにしてしまうこともある。でも彼らから放熱される温かさは、とても心地よくて、しばし当たっていきたいと思わせてくれる。そしてまるで焚き火に集うように、彼らの周辺に人垣が作られていく。
僕自身を振り返って、無心になれているほどの熱源があるかと問われれば首を傾げざるをえない。けれど、好きではないものを好きとは言わないという態度だけは、性分として持っている気はする。ひょっとしたらそんな性分に心地よさを感じている人がいるのかもしれない。
もう少しで冬が終わる。
今年も例年通りとはいかない春を迎えることになりそうだ。
会いたい人にも会えず、うすら寒い春になるかもしれない。
せっかく会えるなら、人柄を感じる人と一緒に過ごしたい。
人柄を感じられる人でいたい。
文/写真:Takapi