節目

4月になると鬱になる人が多いという話をよく聞く。

世の中に流れるなかば強制的な4月特有の前向きでフレッシュな空気感に負い目を感じるのだろうか、爽やかさと賑やかさを引き連れてくる桜の景色も相まって、余計に塞ぎ込むような気持ちになるのかもしれない。

僕としても4月はなんとなく落ち着かない季節だ。
落ち着かない季節になった、といった方が適切かもしれない。

4月を「節目」らしく過ごせていたのは、子どもの頃はもちろん、社会人になってからは社会人3年目くらいまでだろうか。
小学校でも高校でも、1学年「上がる」というだけでも高揚するものだった。
新しいクラスはどんなメンバーになるのだろう、部活動でどこまで成績を残せるだろう。手付かずの未来がどんなものになるのか、その「わからなさ」に期待を寄せることができた。

社会人になってもしばらくは、新卒で入社した同期と一緒に4月を迎えることは学生の頃のような感覚だったように思う。緊張の面持ちの新卒者を眺めるだけで、この数年の自身の成長を感じることができたというのもあるし、経験が未熟であるが故の「新しさ」への興味もあった。とはいえその新鮮さも数年経てば萎れる。不安と期待がごちゃまぜになったあの高揚感は、社会人生活を経るほどにすり減っていった。

そしていつの間にか、4月の「節目」はただの「変化」となり、年齢とともにそれは「忙しさ」に置き換えられてきたように思う。なんとも寂しい40代の所感だ。

けれど昨年から保育園に登園し始めた娘にとって4月は「進級」であり、保育士さんが代わりお部屋も変わる。娘にしたら大きな節目を迎えることになるわけだ。

4月の初登園日、娘と一緒に新しい部屋を開ける。僕も知らない保育士さんが笑顔で迎えてくれる。いつもなら部屋の中に一目散にかけ出す娘も、その日ばかりは入り口で立ちすくみかたまってしまった。「やはりそうだよな」と思ったのも束の間、数秒経てばすぐに上着を脱ぎ、少し戸惑いながらも部屋の中にすっと入っていった。

そのことにホッとした自分に気付いた時、この環境変化に緊張していたのはむしろ自分の方だったことを知った。というよりも娘にとっては「節目」など知ったこっちゃないのだ。日々新しいことを発見し続けている「地続きの冒険の日々」の中にあって、部屋の変化や保育士の変化はひとつのアクセントでしかないのだ、たぶん。

大人になるほど「予期できる変化」が増え、望むと望まらずに関わらずスイッチを切り替えるように自ずからの変化を求められることが増える。そういう中で4月のような「節目」は時に重しとなることがある。知人や友人や同僚の環境変化も視界に入るから、節目は否が応にも誰かと比較する季節でもある。それが時として余計にどんよりとした気持ちにさせることもある。

部屋に向かう娘の目には「目の前の変化」しかない。だからすべてに驚き楽しむことができる。でも、と思う。きっと僕の地続きの日々の暮らしの中にあっても、素通りしているだけで「目の前の変化」はたくさんあるのだろう。ただ驚き楽しめないだけで。気の持ちようではないか、そう考えると少しだけ希望が出てくるような心持ちになった。

新しい保育士さんと型通りの挨拶を交わした後、新しい部屋を見渡し娘を探せば、もう既に本棚から新しい絵本を取り出してはページをめくっていた。

職場では4月から20代中盤の方が自身のチームにジョインした。社内の異動ではなく、交換留学的にとあるところから出向してきたようだ(いろんな取り組みがある)。

この会社のことを知らなければ、僕がやっている領域の知識もゼロ。なにより久しぶりの若い人との対峙とあって、例年とは違う4月を迎えている。

既に数回のオリエンテーリングを重ね、それなりに多くの情報を浴びせている。僕が逆の立場ならもう息切れしてしまうような情報量だ(話しているこちらの喉が枯れるくらいだ)。

ある程度かたまりの情報を入れた後は一旦止まって質問を促すのだが、はじめに出てくる言葉は「いやぁ、面白いですねぇ」であるから驚く。その嬉々とした表情を見ていると、本当に楽しんでいるように思える。僕ならきっとげんなりしてとりあえず先を促すことしかできない。若さ故、と一言で片付けてしまえばそれだけなのかもしれないが、そのポジティブな空気は、4月特有の気怠さを今のところ遠ざけてくれている。

彼が面白がってくれる仕事をさせることが、しばらくは僕自身の楽しみになりそうだ。

例年より遅い開花の桜も満開を迎えた。
今年は少しだけ桜を眺める時間をとりたい。「目の前の変化」を少しだけでも楽しみたい。
今年の「節目」は幾分賑やかに走り抜けていきそうだ。

文・写真:Takapi