良心

このコラムでも何度か登場したことがある気がするが、近所にハンバーグが美味しくて定期的に通っている洋食屋さんがある。

行けば必ずと言っていいほど店前に数組は並んでいて、長い時は30分近く待つことになる。それでも通っているのは、そこのハンバーグが美味しいのはもちろん、毎回寸分狂わないシェフの所作を眺めていたいこともひとつの理由だ。何年も(何十年も)繰り返されてきたであろう無駄のない手作業を眺めていると、時間軸がねじれ俗世から離れるような気分になるのだ(大袈裟だな)。

先日もひとりカウンターに通された。キッチンに目をやれば、いつも通りさながら修行僧のような面持ちで料理と向き合っているシェフが目に入る。しばしの間「俗世から離れよう」とした矢先、シェフの横に見慣れない若手がいることに気付いた。

きっとまだ入ったばかりのバイトだろう。いぶし銀のシェフの横に立っていると、否が応にも「新参者」感が目立つ。その見習い(心の中で勝手にそう呼ぶことにした)は、当然ながらキッチンに立てるわけもなく(というかシェフ以外が立っているのを見たことがない)、せっせとハンバーグの付け合わせのキャベツとパスタを盛っていた。

シェフを見ているから目が厳しくなっているのだろう、その見習いの所作は一段と頼りなく見える。たかだかキャベツをお皿に載せるだけでもこれだけの差が「見えてしまう」というのは、やはりプロの世界は違うな、などとぼんやり考えていたら、ふとシェフが料理の手を止め、見習いに声をかけた。

「そのキャベツ、○○してますか?(肝心のところをうまく聞き取れなかった)」丁寧な物言いの中に厳しさの含んだトーンだった。どうやらシェフの目から見ると、ふだん出しているキャベツとは何かが違うようだ。

一瞬ビクッとした見習い。すぐさま「今日届いたキャベツが硬くて…」と言い訳のような答弁を返した。するとシェフは怒るでもなく落ち着いた調子のまま「わかりました。でも理想は○○(ここも聞き取れなかった)だからね」と伝えると、すぐにまたキッチンに戻った。

その数秒のやりとりのなかに、妥協を許さないシェフの一面を見た。というか、付け合わせのキャベツにもそんなに気を遣っているのかと驚かされた。

しばらくしてハンバーグが僕の手元に届いたが、数分前のキャベツのくだりがあったので、まずはキャベツを注視する格好になった。ふだんと変わらないように見えるが、どことなくしなびているように見える。そっとキャベツを口に運んで味わってみる。心なしかパサついているように感じた。まぁでも言われなければ気付かないレベルだ、と思ったところで、これまでキャベツの味を気にしたことなどないことに気付いた。

でもたしかに、とも思った。この洋食屋さんは、ハンバーグはもちろん美味しいのだけれど、個人的にはキャベツの横に添えられた付け合わせのパスタ(味付けはバターのみのシンプルなパスタ、のはず)と玉ねぎの味噌汁が好きなのだ。なんとも「ちょうどいい」味わいで(当然いつも同じ味わいで)、食べる度に「ただいま」と言いたくなるのだ。

その「ただいま」があるから、また少し経つと無性に食べたくなる。きっと僕と同じようなループに陥った人たちが「ただいま」を言いたくて行列を作っているのだろう。

毎回行く度に違う発見のあるお店も素晴らしいけれど、飽きさせずに同じ味わいを維持させるというのは、それはそれで本当にすごいことだ。運ばれたハンバーグを食べながら改めて感じ入る。頭を下げたくなる思いだ。シェフのこの並々ならぬこだわりがこの店が続く理由なのだろう。いや、こだわりと言うよりもはや意志のようなものなのだろうか。

お店を出てもしばらく感慨に耽っていた。ただどうしてもあのシェフの一連の所作を顕すには「こだわり」も「意志」もしっくりとこない違和感のようなものも感じていた。少し考えてピタッとくる言葉に至った。あの洋食屋のハンバーグの「いつもの美味しさ」を叶えているのは、シェフの「良心」なのではないか、と。

良心。なんとも刹那的な響きだ。

「最後の良心」とか「良心の呵責」とか、それを手放したら大事な一線を踏み越えてしまうような、踏み越えたらダークサイドに堕ちてしまうような、そんな「最後の砦」感がある言葉だ。更に言えば「善悪」のように、社会である程度共通化された物差しではなく、「良心」はそれぞれの人の中にあって、それは彼ら彼女らに委ねられているという感じも兼ねている。まさに刹那的だ。

きっと、あのキャベツの一件にしても、そこで手を抜いたら大切にしてるものが失われてしまうという、シェフの中にある「良心」に引っかかったのだろう。そしてきっとシェフの中には、そういう「良心」がキャベツ以外にもたくさんあって、それらをすべて毎回クリアして出し続けているものが、あの「いつもの」ハンバーグなのだろう。そんなことを考えると、あの洋食店がまた一層愛おしくなった。

振り返ると、僕が好きでよく通っているお店には「良心」が心地よく通奏低音のように流れているような気がする。それは料理屋さんばかりではなく、よく行く服屋さんにも感じるし、もちろんこのコラムを書かせてもらっている眼鏡屋さんにも感じる。

翻って、僕の良心はなんだろうか?そもそも良心を持ち合わせているのだろうか?

仕事において自身に課しているルールのようなものはあるけれど、それは良心というよりは、ひとりよがりのただの天邪鬼のような気もする。どうも見当たらない。

でも「これが私の良心です」と言う人がいたら、僕はその人に感じる胡散臭さから距離を置くことになるだろうから、きっと良心というのは自覚するものではなくて、誰かから見た「解釈」でしかないのだろう。洋食屋のシェフにしたって、あの一連の所作を自身で良心だとは思っていないだろうし。

言い換えるなら、良心というのは自ら拵えるものではなく、誰かの目を通じて「育まれる」もので、そして良心を知るということは、その人が「何においても手放してはいけない」と思っていることを知るということでもあるということだ。と思う。そう思うととても大切なことのようにも思えてくる。

そう考えると、むしろ必要なのは、相対する人の良心を見出すために「目を養う」ことなのかもしれない。そしてそれがきっと自身の良心が「育まれる」一助になるような気がする。

文・写真:Takapi