台風一過

先週末、台風が住んでいる地域を横切った。直撃というわけではなかったが、雨は相当降った。久しぶりの大雨だった。

ここ数ヶ月の酷暑続きの暑い空気も連れ去ってくれたのか、台風が過ぎ去った後の夕方の空気は少しひんやりとしていて、秋の気配すら感じるほどだった。保育園帰りの娘を自転車の後ろに乗せて、久しぶりの涼やかな道を気持ちよく走っていると「台風一過」という言葉が頭を過った。

恥ずかしい話だが、実は中学生くらいまで(いや、もしかしたら高校生くらいかもしれない)「台風一過」を「台風一家」だと思っていた。

大きな風を運んでくる渦巻きのまとまりを「風の家族」と見立てていて、そんな架空の家族が過ぎ去った後には目の前に「リアルな家族」が残る、という、そんな筋書きなのか?と思い込んでいた。なんとも詩的というか牧歌的とも言うべきか。でも個人的にそのネーミングの意味合いは嫌いじゃなかったし、ついでに言えば微塵の疑いも持っていなかった。

台風が過ぎ去る度に、過ぎ去った「風の家族」に思いを馳せながら、カラッと晴れた空の下、家でのんびりと過ごすのが好きだった。台風が通過する時の窓の隙間から鳴るひゅーひゅーという音や、窓の外の木々が大きくしなり、家が吹き飛ぶんじゃないかという、ちょっとした緊張感を抱きながら台風が過ぎるのを待った後の、あの拍子抜けするような青空を眺めながら飲むジュースが好きだった。

何かの折に「台風一家」が「台風一過」であると知った時の、サンタクロースが実は父親だと知ってしまった時の、幼心を裏切られたような、不思議な落胆を味わったことを今でも覚えている。

そんなことを思い出していたら、今ならスマホで「たいふういっか」と打てば、当然「台風一過」とでてくる訳で、そんな勘違いや間違いをすることもないんだよな、ということに思い至った。それはそれで、なんとも味気がない時代だな、とも思った。

勘違いの手前には微笑ましい想像があって、それはきっといつかどこかで自分を温めてくれるんじゃないか、と大袈裟に言えばそんなことを思った。

仕事でAIを使う機会が飛躍的に増えた。使い方はいくつかあるが、概ねふたつだ。ひとつは単純な調べ物、もうひとつは考えをまとめるための「壁打ち」だ。

これまでは、わからないことがあったり考えを巡らせる必要が出てくれば、インターネットの検索を繰り返したり、書物に触れたり、社内で知っている人を頼っては聞きに行ったり、社内にいなければ社外の伝手やセミナーなんかに足を運んだりしては、並べられた情報を前にしてうんうんと悩むことを繰り返していた。

「情報に当たる」ということは手間がかかることで、そこから「答えに導く」というのは、字の如くそこにはプロセスが当然あって、その道程そのものが「知見」になる、そういうものだった、はずだ。

だけど、今ならAIに聞きさえすれば、これまでやってきたことをすっ飛ばして最適な(ように見える)回答をリストアップしてくれる。ご丁寧にいくつかのシーンにわけて推奨もしてくれるし、なんなら更に最適解にたどりつくための気の利いた質問すらしてくれる。もはやカウンセリングであり、外商であり、コンサルティングである。

そんなことだから、当然誰かに相談する機会も減った(会議だけはなぜか増えているが)。少し気になることや考えなくてはいけない課題が出てくれば、まずはAIに聞いてみるようということになった。

「僕はこう思ってるんだけどどう思う?」とAIに聞けば、ある程度十分な答えを、ものの数秒で差し出してくれる(「いい視点ですね」と優秀なマネジャーのような立ち振る舞いもセットで)。そのあまりにスピード感のある「潔い返し」に疑う時間も奪われてしまうのか、こちら側が勝手に「確からしい」と思い込んでしまう。その確からしさ故、もう他の誰かに聞く必要もないか、と解決もさせてしまう。

AIが浸透し、生活に根付いてくればきっと、こんな風に「正しい」ものがすごいスピードで目の前に差し出されることになるのだろう。便利な気もするし、少し恐ろしい気もする。

簡単に答えに導かれ、間違えること、勘違いすることがなくなるということは、なにか人間に必要で大切な「筋力」が落ちてしまうような気がしてならない。

そしてそれは後々重大な問題をはらむような気すらしてしまう。

「自分でやるやる」期の娘は、ズンズンとわからないものに触れ続け、どんどんと間違えては、その体験をひとつずつ自分の中の小さな「引き出し」に入れ続けている。

その無邪気で真剣な様子を見るにつけ、手本や正解を簡単に差し出すことはやめようと、いつも思う。まぁ、手を差し出したところで「いや!自分でやるの!」と手を払われてしまうのだけれど。

間違えた体験の「引き出し」は次に何かが来た時の備えだ。その引き出しが豊かであるほど、「わからない」ものが目の前にあらわれた時に、いろんな可能性を浮き上がらせる「想像」を与えてくれる。そして、その想像は時に「優しさ」にもなる。

これからの世の中で、便利さは手放すことはできないだろうけど、なるべくなら間違えた体験がぎっしりとつまった「引き出し」は抱えているようにしたい。

文・写真:Takapi