集中

「調子が良い時は、下の一点をずっと見ているんですよね。ただ疲れてくると上下左右に視線が行きがちになるんです」

年始の箱根駅伝。古豪と呼ばれる母校の1区の快走に心躍りながらテレビを見ていたら、解説の大迫傑さんの言葉が飛び込んできた。ちょうど残り5キロ強といったところで、それまで快走を続けていた1区の選手に疲れが出始めてきた時だった。たしかに画面の選手の顔をよく見ると視線がチラチラと忙しないことがわかる。大丈夫かしら?と心配になった矢先、「まぁ、でも残りの距離を考えたら当然なんですけどね」と冷静な大迫さんの声が重なった。

その後そのまま1区の選手は表情こそキツそうだったもののペースを落とすことなく、無事に1位で襷を渡した。20年ぶりの区間新記録だった。走り終えた選手の表情は余裕そのもので、足取りも軽やか。なんならまだ走れそうな感じすら漂っていた。その雰囲気は王者そのもので将来の有望さに嘆息しながら、そういえば、と思った。記録が良い人や1位で走り抜けた人は走り終わった後は大抵余裕そうだな、と。駅伝でよく見る光景の倒れ込むように走り終えてくる人の中で、好記録だったことは記憶にない。勝者が余裕シャクシャクに見えて敗者が疲労困憊に見えてしまうという、この世の不条理を目の当たりにして(いやむしろ理なのかもしれない)正月早々考え込んでしまった。

2区に襷が渡ったところで、新年の挨拶まわりの準備を始める。挨拶まわりと言っても大袈裟なことはなく、姉の家に一家が揃うだけの話だ。甥っ子のお年玉の準備をしたり、ワインを保冷バッグに入れたり(なぜか毎年ワインを持参することが僕の役目になっている)と、持ち物のの準備をしている最中、さっきの大迫さんの言葉を思い出していた。集中している時の、いわゆるゾーンに入っている時の視野が狭くなる感じ、たしかにあるよなぁ。と思ったところで、はて僕はここ数年ゾーンに入るようなほど「夢中になったこと」があったっけ?いや、残念ながらそんな瞬間は訪れてないな、とすぐに打ち消すことになった。そんなこと、冷静に振り返らなくてもわかる。同時に「上下左右に視線が行きがち」というのがここ数年の自分について寸分の狂いなく言い顕していて、着替えながら思わず苦笑してしまった。

姉の家につき、型通りの挨拶を済ませてすぐに宴となった。おせちをつつきながら近況を報告する。ふたりの甥っ子(小学4年生と4歳)がしっかり1年分成長していること以外は特段目立つ進捗は感じられない。甥っ子ふたりの成長だけが年月の経過を教えてくれる。ぼんやりしがちな年代が集まる中ではとてもありがたい。

ビールを数杯飲み、ワインに切り替えようかというところで、姉が「おじちゃんに見せたいものがあるんでしょ?」と甥っ子に促す。大人しく控えめなお兄ちゃん(弟は真逆の性格。兄弟って不思議だ)は静かに頷き、僕を勉強部屋兼寝室に連れていく。どうやら昨年の「成果物」を見せてくれるとのこと。これも毎年のことだ。毎年正月に行くと、自身が描いた絵や集めた模型などを見せてくれる。

部屋に入り、「見て」とベッド下の50cm四方程度の引き出しが引かれる。箱の中は色とりどりのの「オブジェ」で敷き詰められていた。鯨やライオン、ティラノサウルスから救急車まで、小さなレゴブロッグを組み合わせて作られた20〜30体の「オブジェ」(もっとあったかもしれない)は、小さな街にひしめき合っているように見えて、さながら小さなジオラマのようだ。そろそろ視力に自信がなくなってきた僕としては、小さなレゴブロックを見るだけでも目がチカチカしてくる(酔っているからかもしれない)。ひとつひとつを壊さないようにおそるおそる持ち上げては眺めていたら、「あ。そうだ」と今度は机の引き出しを開けて、一枚の賞状を取り出し見せてくる。漢検合格の表彰状だった。満点だった。聞けば去年から勉強を始めたらしい。

彼は今、集中力の奴隷なんだ、と思ったら途端に羨ましくなった。と同時に「いいぞ、そのままでいけ」と背中を押したい気持ちになった。

去年あたりから年賀状が減った。地元の友人からはついに1通になった。大学の友人も数えるほどで社会人からの知り合いに限れば1社目の同僚と2社目のお世話になった方からのみ。インターネットで事が済む時代性もあるだろうし、実際に疎遠になっているということもあるのだろう。頭の中で最近の交友関係を整理してみても、新しい友人は増えているものの、旧い知り合いはぐっと減っている。

地元の友人たちとも年に1回は集まっていたのに、ここ数年は集まっていない。たぶん会ったら会ったで、互いに記憶の糸を手繰ることに必死になって、「現在」を共有できないまま、なんとももやもやして別れることになるのは目に見えている。どちらにせよ、各々の「現在」に距離がありすぎて、今の仕事の話なんかをしても、どうもいまいち盛り上がらずに、またあの頃の記憶を手繰り寄せることになるのだ。それが毎年のことになってきたから、暗黙の了解のうちに「そろそろいいか」となっているのかもしれないし、もっと老けてから会ったら面白いのかもしれない。とりあえず今はまだ「現在」と「これから」を話せる人と話す時間が楽しいみたいだ。

コロナの影響もあって、好むと好まざるに関わらず、ここ2年で会う人を選別せざるを得ない状況が続いた。そういうことが重なって多くの人と疎遠になると、自身が取り残されているような、焦りのような、寂しさのような気持ちに苛まされることになった。ただ改めて足元を見つめてみれば、「水が合う」人との距離はより一層縮まり、その人たちは僕が歩む道の先に立つ標識のような役割を果たしてくれている。それは同時に、僕が何を大切にしたいのかを教えてくれてもいる。今の僕にとって見ればとてもありがたいことだ。「集中と選択」と言ったら聞こえは悪いけれど、キョロキョロするよりはヘルシーなようにも思える。

箱根路を走るランナーのように、レゴブロックに向き合う甥っ子のように集中力は維持できはしないけれど、なるたけ手が届く距離にある人たちを大切にして暮らしていきたい。

文・写真:Takapi