何が足りない

物憂げな雨に打たれることもなく梅雨が明けた。そして途端に35度を超える猛暑日が続いている。

家から出ればものの5分で頭痛がするほどで、ちょっとした買い物に出掛けただけでも、家に帰る頃にはグッタリとしてしまう。寸分の狂いなく体調を壊している。夏バテのようなじっくりと痛めつけられるダメージではなく、試合早々カウンターパンチを食らったようなダメージだ(ボクシングはしたことがないけれど)。

飼い猫も完全にこの暑さにやられてしまっている。元気に走り回る時間が減り床に這いつくばるように寝そべっている時間が増え、深夜になってようやく喉を鳴らしながら枕元にやってくるようになった(かわいい)。例外といえば生後2ヶ月の娘で、寝る時以外は手足をバタバタしながら何やら楽しそうに過ごしている。実際に声をかけると破顔した笑顔を見せては「あー、あー」と歌っている(かわいい)。

それはそれとして、これだけの暑さなのに「夏」を感じないのはなぜだろう。ただただ熱波だけが身体にしみ入る。何かが足りない。これではただの拷問だ。

朝起きて、空気を入れ替えようと窓を開け放ち、静かで真っ青な空を見上げて思い出した。
蝉の声だ。あの賑やかな蝉の声がないのだ。かつて岩にしみ入った蝉の声は、現代ではきっと家の外壁にしみ入っては夏さながらの気分を盛り上げる代わりに暑さを和らげてくれているのかもしれない。

こんなくだらないことを考えるくらいにはバテている。
でも目の前の違和感や嫌なことに対して「何が足りない」かを知ることはとても大切だ。往々にして、何が足りないかを「知らない」時に、慌てふためいては苛立ちにまみれ、言いようのない疲れが溜まるものだから。

そういった意味ではここ最近の僕は、この熱波にやられる前からなんとなく疲れている。
「何かが足りない」という感覚をずっと抱えている。その正体がいまいちわからずにいた。それはないものねだりとも違う、「かつてあったもの」が失われるような「何かが枯れていく」ような感覚と言えるかもしれない。

今の職場になってからもう4年になるが、4年経ってもなお前職で積み上げたことを切り売りしてなんとかやってきているようなところがある。前職で出会った人たちが今でも手を差し伸ばしてくれるおかげで、なんとか仕事ができていると言っても過言ではない。

先日、前職の頃たまに飲みに行っていた方と、仕事でお会いする機会があった。久々の再会は嬉しく(かれこれ4年近く会っていなかったらしい)、近況の報告がてら雑談をしていたら「なんだか遠くに行ってしまったような気がしていた」と言われた。

少なからずショックだった。実質的な距離以上に、境遇とか、仕事内容とか、そういった諸々の自身の中身とは関係のない「外側」のものが、人との距離を遠ざけるようなことはあるのだと思い知った格好だった。

その一言で気付いた足りないものは「つながりの絶対数」だった。それは交換した名刺の数とかSNSのフォロワー数といったような数字的なことではなくて、言ってしまえば会って話したら「距離をゼロにできる間柄」のことだ。良くも悪くも、ここ2年の感染症の流行は、交友関係を優先順にスクリーニングすることに寄与し、さらには実際の交流においてもソーシャルディスタンスよろしく「節度ある距離感」を保つことを前提にしたコミュニケーションスキルを向上させることになった。できるだけ穏便な間柄でいようと常にコンプライアンスを意識した対話がうまくなる一方で(そうなることを“大人になる”とも言うのかもしれないけれど)、なんら気を遣わずに話せる人たちは確実に減ってしまった。そして今僕の仕事を助けてくれている人たちの多くは、感染症の流行前に「気を遣わなかった」会話を繰り返した人たちだ。

それでも、感染症が影を潜めていく今夏、ここ数年の距離を埋めるかのように多くの人から声がかかり始めている。この波に乗って(体調を壊さない程度に)旧交を温めることにしたいし、新しく出会った人たちとも気安く声を掛け合っていきたい。

「是が非でもこの人と仕事がしたいんです」
とある仕事の打ち合わせの中で同僚から出てきた言葉だ。聞けば、その人のことをここ数年ずっと追いかけていたらしく、いつかは一緒に仕事をしたいと常々思っていたらしい。とは言え、その方にお願いするのはハードルが高いように思えた僕は「では、その人にお願いするために短くてもいいからレターを書いてみましょうか」と逃げるように伝えて打ち合わせを終えることにした。

それから1時間もしないうちに届いたメールに添付されたワードには、10数行にも渡って思いのこもった言葉が並んでいた。それは久々に見た完全無欠の「ラブレター」だった。
「ほんとうは手書きにしようか悩んだのだけど…」という言葉でメールは結ばれていて、その言葉を見て、もうひとつ僕に「足りない」ものを思い知らされることになった。

先述したように今の仕事に就いてもう4年だ。当初はなりふり構わずやっていた部分が多くて、とにかく熱量を振り撒いては、共感してくれる人に大袈裟に握手を求め続けていたように思う。それが数年経ち、幾分軌道に乗って安定してくるようになると、不思議なもので徐々になるべく波風のたたないように振る舞うように勤務態度が変わった。強引に事を進めるよりも多少時間がかかっても丁寧に進めることを優先させるようになった。このラブレターにいつか僕が持っていた「熱量」の不足を思い知らされた。

とは言え、ここ最近の仕事を振り返れば、当初とは違う難問をいくつも抱えながら、心強いパートナー達とひとつずつ乗り越えられている。仕事に熱が入っていないということではなくて、なんとなく経年による慣れと周りの頼もしさが「思い切りの良さ」を僕から奪っているだけのようにも思う。

きっと足りないものは、僕の「向こう水な態度」だろう。
それは今の立場では難しいかもしれない。でも少し足を伸ばせばできることはある。要は自分の手足で、自分の筋力でやれることを見つけるだけだ。それはとてもミニマルで簡単にできることではないか。

そろそろ夏の風物詩である蝉も全力で鳴き始めるし、甲子園だって始まる。ビアガーデンだって盛況を極める。夏を彩るもので周りが満たされれば、暑さはまた別のものを纏って気持ちを盛り上げてくれる。それはしばし疲れを忘れさせ、活力を与えてくれさえする。

「足りない」ものがわかれば、あとは埋めるだけだ。埋まった先に何が待っているかはわからない。新しい「足りない」がわかるだけのような気もする。でもわかっているのは「知らない」ままでいて疲れが溜まっていくよりはずっといいということだ。

これからも「足りない」といつでも慌てふためいては、少しずつ「知る」を繰り返していくのだろう。とりあえず今はお酒が足りないようだから、この夏は浴びるほどビールを飲みたい。

文・写真:Takapi