これまでの40年近くの人生において「土用の丑の日」とは無縁だった。というより、メディアで取り上げられたりスーパーでここぞとばかりに陳列されている鰻を見ても、心が動くことはなかったと言った方が正しい。そのはずなのに、なぜかこの日はものすごく惹きつけられるものがあった。まぁ、つまりはどうしても食べたくなってしまった。

家に帰り妻にチラシを渡せば「あら。いいじゃない」と軽く承諾をもらったので、翌日に改めてスーパーに行って「鰻重」の予約を済ませた。

翌週の「土用の丑の日」にスーパーで鰻重を引き取り、食卓に広げた時には、思わず喉が鳴った。やはりそれだけ身体が欲していたのだ。食べれば一口ごとに夏バテし切った身体の隅々が息を吹き返していくのがわかる(あくまで気分だ)。なんとも満足度の高い夏の夕餉となった。

こういう「季節の食」に手が伸びるようになったのは、ここ数年のことだと思う(厳密に言えば天然の鰻の旬は夏ではないらしいが、そもそも天然鰻を目にすることもほとんどないし、夏バテする季節のスタミナ食という点でみれば季節の食と言って差し支えないだろう)。最近の食卓を振り返れば、ほぼ毎日枝豆を食べてるし、とうもろこし、オクラ、ズッキーニなど夏野菜についてもほとんど2日1回くらいのペースで食べている。若い頃は、腹が減れば「焼肉したい!ラーメン食べたい!」と特定のメニューが頭に浮かんでは、食卓もその欲望に倣っていたように思うのだが、ここ最近は特段「食べたい」ものが浮かばない代わりに(そもそもそんなに腹が減らない)、スーパーに並ぶ「元気」な食材、つまりは旬がわかるようになってきて、自然と手が伸びるようになった。手に取れば心なしか気持ちは昂り、食べれば身体が喜ぶ。ような気がする。

旬な食材を選ぶもうひとつの利点は調理をあまり選ばないということだ。食材そのものが美味しいから、そのまま食べてもいいし、焼いたり茹でては塩をふるくらいのシンプルな調理で十分。というか余計なことは極力しない方が美味しい。ついでに言えば、手間の少なさは精神的にも衛生的でもある。

そんなこともあって最近はなんとなく調子がいい。
サウナの後のように、旬を食した後は身体が整っているような気さえするのだ(あくまで気分だ)。

仕事の縁で、とあるベテランのクリエイターの方と食事をする機会に恵まれた。名前を聞けば多くの人が知っているであろうその方とご一緒できるとあって、少し浮かれていたものの、僕なんかが一緒に食事をしていいのか、と少しだけ後ろめたいような申し訳ないような気にもなっていた。

事前の懸念は乾杯早々、その方の物腰の柔らかさで消し飛ぶことになった。実績も地位もある方なのに、その気配は微塵も感じさせず、ふっと自然にその場に溶け込んでいるのを見て、気が抜けるような安心をおぼえた。

驚いたのは、その場に居合わせた人のどんな話に対しても「ふむふむ」と面白がってニコニコしながら聞く姿だ。子どものように好奇心を丸出しで話を聞いては、ひとつひとつに丁寧に(冗談を含ませながら)コメントを入れる姿を見て、自身のふだんの会話を思い出して恥ずかしくすらなった。

気づけば、同席していた会社の上席の方も、これまで見たことのないような楽しそうな雰囲気で(なかば酔っては)会話を楽しんでいた。僕も心なしか飲みながら元気をもらう格好となった。その証左として、飲み会が終わった後も足取りが軽かったほどだ。

早い時間に飲み会がお開きになり、家に帰る時刻がちょうど夕飯時だった。食卓に並ぶ枝豆を少しつまみながら、酔った頭で人生における「旬」はいつだろう、などと考えていた。そして、先ほどまで一緒にいたベテランのクリエイターの顔を思い出して「ひょっとして」と思った。

もしかしたら彼は、彼自身が「旬」でい続けるために、あのように人の話を面白がるということを取り入れているのではないか、と。新しい話や出会いを「旬」なものとして身体に取り入れることで、自身を保っているのではないか。意図的であれ本能的であれ、その態度でいることが、今なお尽きない彼のクリエイションの源泉なのではと、そんなことを思った。

人として旬であるということは、結果としてその空気に触れた周りの人にも元気を分け与える格好となる。周りの人が元気になればまた自身に新しい何かが舞い込んでくる。旬でいること、もしくは旬であろうとすることは、好転を呼び込むもっとも無理のない方法なのかもしれない。もっとシンプルに言えば、年齢とともに落ちてしまう体力や能力は必然だとしても、いわゆる「老い」を遠ざけることにつながるのではないだろうか。

たかだか40歳そこそこで知ったような顔をしてる場合ではないんだな、と何粒目かの枝豆を口に放り込んで思った。
人における旬とは、やってくるものではなく自ら手繰り寄せるもので、ついでに言えば、それはきっと「エネルギーに満ちた時期」として通り過ぎるものではなく、スーパーに並ぶ食材よろしく、体内に積極的に取り入れることで保つことができるものなのだ。

旬を摂り続けよう。
40歳を迎える自身に一つの指針ができた。

文・写真:Takapi