慣習

とある週末。行きつけの洋食屋さんでいつもの通り、ハンバーグランチ(温玉つき)とランチビールを頼む。締めて1,300円。メニューを見なくてもそのくらいは覚えているくらい通っている。

そそくさと食べ終えて財布を開けば生憎1万円札しか入っていない。小銭は100円玉が何枚かあったので、10,300円を用意してレジに向かう。なるべく財布は軽くしておきたい、誰でも思うことだ。お金を受け取った若い女性(おそらくアルバイトだろう)は、「ありがとうございます!」と元気よく言うやいなや電卓をたたき始める。

「いや、電卓をたたかなくても…」と頭の片隅でちらっと思うものの、やはりずっとやってきた慣習でもあるのだろう(もしかしたらお店のルールなのかもしれない)、特段急ぎの用事があるわけでもないので、満腹後のねじの緩み切った頭で別のことを考えて待つことにした。数秒後「はい、では7,700円のお釣りですね!」とお金を渡された時、瞬時に間違っていることに気付かないくらいにはぼんやりしていた。

お釣りを手にして出口に向かう途中で何か違和感を感じる。「あ。違う」と思ったのと同時に声が出ていた。予想だにしない間違いを目の前にすると慌ててしまうのか「8,700円じゃないですか?」と、せっかく札だけのお釣りにしようと300円余計に払ったことを僕自身が忘れてしまっていた。

結果としてしっかり9,000円は返ってきたものの、お店を出て歩きながらしばらく考え込んでしまった。

きっと彼女はあの場で電卓をたたく慣習さえ差し込まなければ、お釣りを間違えはしなかっただろうな、と。慣習は時として当たり前に持ち合わせている能力というか、判断力のようなものを鈍らせる強制力があるのだろうか。たしかにそういう面もあるのかもしれない。

それはそれとして、たった数秒前にやったことを忘れてしまった自分にもいささか驚いた。疑いようのない行為は、やったそばからすぐに忘れてしまうということだろうか(単純に年齢のせいかもしれない)。これも慣習がさせたのだと思うと少しぞっとした。ふだん何気なく、なんの疑いもかけずにやっていることのなかにも、もしかしたら誤っていることはたくさんあるのではないか?知らず知らずのうちにコンプライアンス違反を犯しているのではないか?自身から発せられる言葉にはバイアスがかかっているのではないか?などと最近の流行り言葉が頭を横切ったりもした。

僕が携わっている仕事の領域では幾分有名な某業界誌から、取材の依頼が入った。内容を聞けばベテランから若手にアドバイスを送るというのが趣旨らしく、僕の15年強の社会人生活を振り返るものらしい。果たしてその役目は僕なんかでいいのか?そもそも僕はベテランなのか?それを読んだ有望な若手達を間違った方向に進ませやしないか?と少しだけ不安になったが、せっかくの機会なので受けることにした。

事前にもらった質問リストには「仕事におけるターニングポイントは?」という項目があった。

改めて自身の社会人生活を振り返ってみたものの、ターニングポイントと呼べるようなダイナミックな転換点は見つからなかった。運がよかったのか、ただ自分の意志がなかったのか、この15年間大きな挫折を味わうこともなかったし、反面「やりきった」と思えるような成功談もなかった。それこそ慣習のごとく、目の前に差し出された仕事をこなしていったら、自然と「向こう側」から席が用意され、あまり疑うことはせずにまずは座ってみて、それから座り心地の悪いと思った箇所を、ちょっとずつ修理するような作業を繰り返してきただけのようにも見える。なんだか主体性のない社会人生活にも映る。

またちょうどそんな折に「転職します」「心機一転職業を変えます」といった報告が相次いだ。周りの知人・友人たちがどんどん自分の判断で自分の人生を動かしている。その勢いに気圧されるように若干不安になる。僕は知らぬうちに大きく道を踏み外しているのではないだろうか?そんなことを思った。

「あの魚屋さん、もう62年になるんだって」週に1回は必ず通っている近所の鮮魚屋さんに妻が娘を連れて買い物に行った際に、ふとした会話でご主人から直接聞いたらしい。かれこれ18歳からこの道1本で生きてきたようで、御年80なのだとか。

ご高齢なことはわかっていたが、行けば元気に挨拶してくれるし(たまにおまけもくれるし)、背筋はシャンとしているし、よく朝に原付で魚を仕入れに行っている姿を見かけるし、まだまだ60代後半くらいなのだと思っていたが、もう80歳だとは驚いた。そしてそれ以上に、ひとつの職業を62年もやり続けていることに、驚きを通り越して畏怖の念さえ抱いた。

「はぁ。すごいな」そう嘆息混じりに口にしたら、ここ最近の出来事で靄がかかっていた頭が少し晴れた気がした。あの魚屋さんに比べたら僕なんかまだ新人と変わらないではないか。新人の僕にできることは、まずは慣習よろしく目の前の仕事をつづけることだけだ、と。

どうせ人生はふとした時に「向こう」からやってくる。

文・写真:Takapi