あの頃の未来

 

あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ

ほろ酔いの世田谷線の中、25年も前の名曲のこのフレーズが頭を過ぎっていた。

理由ははっきりしていて、直前の飲みの席で、ふと投げかけられた「若い頃に抱いてた40歳の姿と比べてどう?」という問いがあったからだ。話の流れで出た軽い質問だったはずが、思わず考え込んでしまった。ただ若い頃を振り返るだけのことだから、本来考える必要などない。だから正確に言えば、記憶の中に若い頃抱いていた未来像が「何もなかった」ことに気付いたことにたじろぎ、自分の無計画な人生観に対して考え込んでしまった、ということになるのだと思う。

25年も前、僕がまだ中学3年生の頃に、SMAPは歌詞を通じて諭してくれていたのに、未来に目もくれずにのうのうと生きてきたようだ。世田谷線の車窓に映る顔はやたらとぼんやりして見えた(酔っていただけかもしれない)。

ちょうどその飲みの席の直後に40歳を迎えた。そんなタイミングにこの名曲がシグナルのように鳴ったものだから、少し人生というものを振り返ってみたくなった。40歳という節目でもあるし。10年一区切りとは言ったものだ(それにしても、40歳という響きは重たい)。

10歳刻みで振り返ってみようと思ったものの、当然ながら10歳の頃に何を考えていたかなど忘却の彼方だし(徒競走で1位になることだけ考えていた気がする)、20歳の時もバイトにサークルに覚えたての酒に(女性に)忙しくて「考え」などなかったことに気付き、少しげんなりしてきた。

では30歳はどうか。
その頃はちょうど1回目の転職して間もない頃で、何やら慌てふためいたように思う。とてもじゃないが、未来に目を向けられていられる状態ではなかった。目の前の仕事でどうやったら抜きん出ることができるかを画策したり、定期的に会う大学の同期と年収を比べては一喜一憂したり(その頃はまだ学生時代の友人との会合が多かった)、そんな風に「今」を比較することで精一杯だった。要は自分が「秀でているのか」「劣っているのか」という尺度しか持っていなかったというわけだ。

反面、この頃から「こんなはずじゃなかった」とか「こんなものなのか、自分の人生は」とも思うようになってもいた。自身が将来設計なしに歩んできたくせに、周りの人と比べては、勝手に自分を卑下しため息をつくような毎日だった。なんだか遅れてきた思春期というか、忘れてた頃にきたイヤイヤ期のようにも見える。今振り返ると赤面甚だしいし、当時関わっていた人に陳謝して回りたいくらいだ。

それでも出会う人には恵まれた。当時の先輩方は本当に我慢強く僕と向き合ってくれた。もう離れて5年が経つのだけれど、いまだに気にかけてもらっては声をかけてくれる。その度に感謝の気持ちでいっぱいになる。先日も突如LINEで「そろそろ飲みにいくぞ」と連絡が入ったり、別の先輩からは「今入ったBARのオーナーが君に似てたから」と電話がかかってきたり。そんな楽しい先輩たちに会えたのはありがたいことだった。

当時接していただいた先輩方と近い年齢になり、最近ではいろんな障壁が現れる度に先輩方を思い浮かべることが増えた。「あの人はこういう時どうしていたっけ?」とヒントや答えを探しにいくように記憶を辿ることが増えた。

自分で描けなくても、出会ってきた人たちが未来を描いてくれることもあるらしい。そう考えると未来はそんなに悪くないよう思えてくる。

40歳手前に娘が生まれ、未来を考える機会が圧倒的に増えた。

1日単位で変わり続ける娘を眺めながら、数ヶ月後、数年後、10年後、数十年後はどんな人になっていくのか(なってほしいのか)常々考えるようになった。その時に自分は(夫婦は)どういう親でいるべきかも併せて考えることになった。これはこれで新しい未来だ。

それでも自分自身となると10年後、50歳にどうなっていたいか、はまだまだ靄がかかっている。娘の未来は希求できても、自身の未来となるととんと見えない。どうやらこれは性格なんだろう。それでもきっと娘が新しい未来を引き連れてきてくれるような気もしているし、これからの人生で仕事やそれ以外で接する人が増えていくであろうことを考えれば、また新しい未来が勝手に待っていると見ることもできる。もはや未来など自分で考えられる代物ではないのではないか、とも思えてくる。

10年後、50歳になった時、あの名曲のように振り返ることはないかもしれない。
それでも未来が少し気楽に見えているのなら、それはそれでいいのかもしれない。

いつだって、夜空ノムコウにはもう明日が待っているのだから。

文・写真:Takapi