おみやげ

往々にして、金曜日ともなると仕事の疲れもピークに達するので、夕飯時に自炊する元気は残っていない。それでも1週間やり切った褒美として食べ応えのあるものを食べたい。次の日は休みだから少しくらい胃もたれしたっていい。とにかく元気になるものを食べたい(酒も飲みたい)。

コロナ以降、いわゆる「華金」が鳴りをひそめ、家で過ごすことが増えた。そして「金曜夜の回復食」と名付けられたルーティンが新たに追加されることになった。

とは言え、大体食べたいものは数パターンに限られるし、料理する体力も残ってないから、もっぱらUber Eatsか冷凍食品に頼ることになる。タイ料理屋さんでカオソーイを頼むか、サイゼリヤでハンバーグと青豆サラダと旨辛チキンとマルゲリータを頼むか(ほんとに次の日のことを考えていない量だ)、とあるカレー店がオンラインショップで売っている冷凍カレーを食べるか、今では大体この3パターンに落ち着いていて、順繰り繰り返しているような格好だ。

このカレー店は、行きつけのカレー店の店主がInstagramで薦めていたお店で(同業者の声は一番信用できる)、ホームページを覗いたら冷凍カレーを販売しているものだから、ものは試しと一度買ってみたところ、美味しさはもちろん、不思議と元気になる感じが癖になり、冷凍庫の常連メンバーになった(いまだに店舗には行ったことがないのだけれど)。

先日も冷凍庫のカレーの在庫が寂しくなってきたので追加発注をした。3日後に届き、勇んでダンボールを開ければ「いつもありがとうございます!インドのおみやげです!」と手書きで小さく書かれたビニールの包みが入っていた。

中にはかわいらしい栞とレターセット。インドの色味だなぁ、などと間の抜けた感想が浮かぶとともに、その手書きのメッセージの“人感”と、“いつも”に含まれる優しさがじんわり嬉しくて、そっと手書きのシールが貼ってあるビニール袋に戻すことにした。

お店が運営しているオンラインショップでの買い物は、Amazonのように即日配達のような便利さと引き換えに、こんな風に交換日記のような小さく個人的なやりとりができるという楽しさがある。

時折お皿を買っているお店からは、毎回便箋1枚分にもわたる丁寧な手書きの商品案内が入っていて、そのバイヤーさんの商品への愛着を受け取ることができる。当然受け取ったこちらも、商品を大切にしようと愛着が芽生えることになる。

今となっては行きつけになったコーヒー屋さんも、以前は店頭で話すようなことはほとんどなかったのに、コロナ禍でオンラインショップを通じて豆を買い続けていたら、その後実際にお店に行った時に覚えていてくれて、そこからは気軽な会話が一気に増えた。

オンラインを介したやりとりには、時折リアルなやりとり以上に距離を縮めてくれることがある。こんなことに気付かさせてくれたのは、コロナ禍におけるひとつの「おみやげ」なのかもしれない。

4月に入り、これまでほぼひとりでやっていた仕事にひとりメンバーが追加された。社内からの公募で(要は希望して)ジョインすることになったとのことだ。

ここ2〜3年、こじんまりとはしているもののせっせとひとりでやってきたことに共感してくれるばかりか、一緒に働きたいと思ってくれる人がいることに、なんだか感慨深い気持ちになる。

それはそれとして、ここ最近はほぼ毎日のように、僕がどんな物に見て触れて(何が好きで何が苦手か)暮らしているのか、といった話や、彼女はどんな人生を歩んできて、どんなことが好きなのか、といった結論のない話を、具体的な業務の話の傍らでし続けている。まわり道のような気がするが、そういう“交換”をしないとうまく引き継げないような気がするのだ。

話していて面白いのは、彼女は新卒から今の会社で営業をしていて、僕は数社を渡り歩いた転職組ということもあり、価値観がまるっと違うことだ。正反対と言ってもいいくらい違う。会話する度に新しい発見があって、なんともそれが心地良い。例えるなら、自分の「住んでいた街」の話をしてくれるようなもので、その街の美味しいものや流行り、さらには文化・風習を教え合うような感じに似ている。いわば「会話のおみやげ」だ。

この「会話のおみやげ」は、ふだん仕事でゴールありきの会話をしているからか、とてもいい息抜きになることがわかった。会話そのものに手書きのような緩さを感じて、相手との距離を縮めてくれるような気がするのだ。「会話のおみやげ」は今の僕にとってはひとつの「回復食」のようなものらしい。

会話のおみやげをもっと手渡していきたい。そしておみやげを手渡せるくらいには、「自分の街」をもっと知り、ネタを集めておきたい。たぶんそれは元気の源になるはずだから。

文・写真:Takapi