似たもの探し

悲しいかな、サラリーマンというのは突如宴席に呼ばれるということがままある。
その宴席も前日くらいに差し込まれ、断れる空気でもなく「はい、よろこんで!」と某居酒屋チェーン店のような返事をしていた。

聞けば、とある企業の社長との懇親の宴席(4名)とのことで、いまいち呼ばれた理由がわからない。まぁでもそんなことは考えても仕方のないことだ。

当日指定されたビアバーに行けば、既に僕以外は揃っていて、空いている席の横には、60歳を少し超えているであろう件の社長が座っている。最後に来てしまったことを侘びつつ挨拶をすれば、全く気にする素振りもなく朗らかな雰囲気で少しホッとする。

宴は楽しく進行し(結局いつもそうだ)、横に座る社長を見れば、酒が入っても柔和な態度を崩さず終始にこやかで(多分におしゃべりだ)、少し大柄な身体のせいか若干の舌足らずな感じも相まって好々爺な雰囲気を醸し出している。

楽しい空気のまま酒は進み、宴席も後半に差し掛かってくると、隣の社長もさすがにお疲れの様子で、目がしょぼしょぼと小さくなっていた。その様子を見て、ふと前職の時によく飲みに誘ってくれたお偉方のことが頭に過った。

その方も大柄で柔和で、舌足らずなところがあった。そして決まって酔いが進むと目が小さくなる方だった。

もうかれこれ5年は会っていないだろう。それでもちょっと似てるところがあるだけで顔が浮かぶことに少し驚いた。

でも改めて振り返ると、案外そういうことはあって、見た目の特徴はもちろん、ふとした仕草や口癖なんかで、「あの人と似てるな」とフラッシュバックすることはある(結構ある)。

それはそれで大した問題ではないのだが、唯一困るのは、一度頭に過ってしまうと、目の前にいる人といつかの人のふたりを重ねて見てしまうようなところだ。性格まで同じ感じなのでは、と思ってしまったりもする。

この日も前職のお偉方の顔が横に座る初対面の社長としばらく重なってしまった。でも、そのお陰もあって、緊張も忘れ、だんだんとくだけた会話ができるようになった。

「2軒目に行きましょうか?」と誘われた時も単純に嬉しかった。もう少し話をしたいと思った。

連れて行かれたお店は蕎麦屋さんで、そこで締めの蕎麦をサクッと食べてお開きになった。その辺の立ち振る舞い方も前職のお偉方と重なった。いつも一次会が終わると「あとは若いので」と、タクシーを呼んでサッとおひとりでお帰りになっていたことを思い出した。

ベテランの酒の造り手にインタビューをする機会があった。

その方が歩んできた酒造りの道程を聞くのは楽しく刺激的で、メモが止まらない取材となった。取材の終わり間際、ひとつ気になることがあって手を挙げた。酒造りは感性によるところも多分にあるであろうから、いわゆるセンスが大切な職業において、どうやって後進を育てているのかについて質問をさせてもらった。

若干の沈黙の後「味の前に言葉を覚えさせることかと思います」と意外な答えが返ってきた。言葉を覚えさせるとは、たとえば「なんか嫌な匂いがする」といったような「なんか」にあたる言葉を一緒に感じ、言葉を導いてあげるところから始めるのだそう。そう言われれば、ワインも土っぽい匂いとか猫のおしっことか言っていたな…と聞きながら思った。

言葉で言い当てるためには、当然ながらたくさん経験をすることが必要で、その場数が増えれば「あ。この感じは前に感じたやつだ」と、“似たもの”を思い出しては言葉に結びつけられていく、というわけだ。そんな風に、先輩と後輩の言葉が揃ってくることがスタートで、それができるようになってようやく「どういうことが必要なのか」の話ができるようになってくるとのことだった。

なるほど、とてもわかりやすい話だ。
ひとつだけ残念なのは、自身の仕事ではどうにも活かせそうにないことだけだ。

それはそれとして、案外「似たもの探し」は生きていく上で大切なひとつの実践的なテクニックなのではないかと思い至った(いきなり話が大きくなるが)。いや、似たものを探す以前に、似たものを探せるだけの「体験数」があることが大切だと言うべきだろうか。

より多くの人に会っていれば、初めて会う人も「なんとなくこんな感じの人かも」と予想がつけられて、無駄な緊張をせずに済むかもしれない。その先に仲良くなる可能性も、余計なトラブルを避けられる可能性も出てくるはずだ(逆もありそうだけど)。

より多くの食事を体験していれば、冷蔵庫の中にある余った食材を見るだけでどんな味でもんな調理が合うかがわかるから、料理が苦痛ではなくなるかもしれない。何より食卓がより楽しいものになるかもしれない。

似たもの探しができるということはつまり「予想がつけられる」ということだ。そういった意味では、なるべく食わず嫌いしないでまずは「知って」「言葉にして」ストックしておくのがいいのだと思う。その引き出しは、次に出くわす「初めて」できっと役に立ってくれるはずだ。なぜなら多くの失敗やすれ違いは、「知らない」が入口になっているから(たぶん)。

とは言え、なかなかそんな簡単にはいかないのもわかる(忙しいし億劫だ)。でもこの年齢になり、いろんな背景を持った人と話す機会が増えて思うのは、「似たもの」を手元に多く持っている人は、なんとなく生きやすそうに見えるということだ。

そういう人を見て、僕もあの人みたいに子どもの頃にもっと幅広く「知る機会」があったならなぁ、と羨むことも増えた。

我が身に立ち戻れば、娘も歩くようになり言葉も徐々におぼえ始めている(ガーガー、ニャーニャー、マンマくらいだけど)。なるべくなら、「似たもの探し」で困らないくらいには、いろんな世界を見せてあげたいと(習い事をたくさんさせようということではない)。

とりあえず僕が見ているものは惜しみなく見せていきたいし、そのためにも僕ももっと「似たもの探し」をしなくちゃ、と思うのである。

文・写真:Takapi