人バテ

「猛暑日」という言葉が出回り始めたのは何年くらい前からだろう。

「猛る暑さ」とは上手いこと言ったものだ。それ以外に思い浮かばないほど太陽が猛っているように思える。このままいくと僕が老人になる頃には平均寿命が下がっているのではないだろうか。最高気温が35度以上だった日数が過去最高だったというニュースを見ては、地球の未来を憂う毎日だ。

いや、そんな壮大な思いに駆られるような余裕もなく、毎朝汗だくになりながら娘を保育園に送っては、そこであらかたの1日分の体力を使い切り、結果的に夜22時には床に就くような毎日を送っている(むしろ健康的かもしれない)。

外が「命の危険を感じる暑さ」ということで、結果的に冷房のよく効いた部屋で1日のほとんど過ごすことになるわけで、夏特有の冷たいものを摂取しすぎてお腹を壊すようなこともなく(強いて言えば辛いものを食べすぎて次の日に後悔するくらい)、お腹の不調からくる夏バテはしていない。ただ、汗がまとわりつくように疲労感がずっと身体にまとわりついていて、なんとなくずっとボーッとしている。

やはりしっかりと夏バテしているようだ。

体力が落ちれば気力も落ちるのか、この夏は慣れない人と接して「夏バテ」ならぬ「人バテ」すら発症してしまっている。

先日の取材のこと。取材場所にて名刺交換をするやいなや、「今日はどんな話がしたいのですか?」と単刀直入になかば鋭い口調で問われた。あまりに咄嗟のことで現場のメンバーが戸惑っていると、その空気感に痺れを切らしたのか、彼は畳み掛けるように話し始めた。そこから取材の段取りを取り戻すことができず、1時間程度、彼の演説をただ呆けて聞くような取材になってしまった。

取材中に僕にも「で、あなたはどう思いますか?」とまっすぐにこちらの目を見て、何度か問いを投げかけてきた。こちらが答えに窮していると、肩をすくめて目を逸らし(失望の表情とともに)、次の話を始める。この繰り返しだった。

結局何もできないまま、取材は終えた。熱量高く喋ってもらったのに申し訳ない気持ちと、何もできなかった自分への苛立ちで、なんともモヤモヤした気持ちをくすぶらせながら取材現場を後にすることになった。

帰りの電車で席に座った途端に、ズンと身体が重くなる感覚に襲われ、一気に眠くなってしまった。どうやらくたびれてしまったようだ。

その翌週の週末は、飼い猫の検診のために動物病院に出かけた。待合室でソファに腰掛けると、隣に座っていた男性が話しかけてきた。はじめは他愛のない話だった。いい息抜きになると思い、軽い調子で話を合わせていたのも束の間、徐々に彼の話に熱が帯び始めてきた。どうやら日本のペットの飼い主に対して強い違和感があるらしい(海外の方だ)。そこから日本の獣医に対してまで話が及び、他の病院の獣医に対する批判まで飛び出しだりと(この病院にはポジティブだった)、またもここでも意見をぶつけられる格好となった。

そもそもこういう場で会話をすることにも慣れていなければ、初対面で相手の素性もわからないまま意見を言い合うことも慣れていないものだから(なんとも頼りない中年だ)、凡庸で曖昧な反応しかできなかった。きっと彼も僕の意見など聞こうとは思っていないのだろう。結果として、待ち時間の10分ほどの間、ほとんど彼がひとりで喋り続けていた。

一通り喋り終えて満足したのか、会計を済ませると意気揚々と帰っていった(ように見えた)。彼が出ていくと思わず小さなため息が出てしまった。ここでも人バテを患ってしまったようだ。

胃腸が弱まる夏バテには、滋養のある食生活が必要だ。とにかく胃にやさしいものを摂るべきというのは、経験値的にも知識的にもわかる。では「人バテ」となるとどう対処すべきなのか、とんとわからない。

受けたエネルギーを発散させようと、気心知れた仲間内で飲みに行っても、疲れているのか、うまくふざけられずにいたり、会話がチグハグになってしまったりした。気付けば意見を言ってしまったり、相手に強く意見を求めるようなこともあった。そんな態度が出てしまったことに何より僕自身が驚いた。そのことに対する罪悪感でまた疲れてしまったり、負の連鎖が生まれている。

要は滋養のある言葉が必要なのだ。
ここ数日を振り返り、滋養の言葉を探してみたら、案外あることに気がついた。

同僚と行くランチの会話の中にあるくだらない話に滋養はあった。妻との晩酌時における「今日の娘の面白報告」のような会話の中にも滋養はあった。リアルな会話でなくとも、本の中にも滋養はある。喧騒のように荒々しい言葉が並ぶインターネットから離れ、静かに佇む言葉に触れるのも滋養だ。穂村弘さんのエッセイなんてピッタリだろう(ちょうど今読んでいる)。なんならふだん娘に読み聞かせしている絵本の中にも滋養はある。

そんな言葉を思い出していると、なんとなく体力が戻ってきている気もしてくるから現金なものだ。それはそれとして、ひとつだけわかるのは、滋養のある言葉は「ぶつける」ものではなくて、なんてことない(時として会話にすらならい)揺蕩うような言葉なのだということだ。

この夏は、もう少しそういう言葉が必要そうだ。そういう時間も必要だ。

文・写真:Takapi