とある日本ワインの造り手に取材する機会があった。
その方はワインの造り手としては若手に入るような年齢なのだけど(造りはじめてまだ数年とのこと)、造るワインはとても人気で、さらにはそもそも本数が少ない上にファンがしっかりついているからか、リリースしてもすぐに売り切れてしまうとのこと。エチケットを見ればどこかで見たことがあった。きっとSNSでいくつかフォローしているワイン愛好家やワインショップのアカウントから流れてきたものだろう。
取材後その造り手の方と立ち話をする中で、僕が最近はナチュラルワインにはまっていて、近所のナチュラルワインを取り扱っている酒屋で週に1,2本買っていることを告げると、「なんというお店ですか?」と質問された。果たして店名を伝えたところでわかるのかな、と首を傾げながら店名を告げると、「あぁ」と笑顔になり「ちょうど来週送るところですよ」と言うから驚いた。なんでもそこの店主には昔からお世話になっているらしい。
取材後数日経って、いつも通り近所の酒屋さんに足を運んだ。そのお店のレジ台には、店主がこれまで会ってきたワインの造り手とのツーショット写真がずらっと貼られている。普段はきっちりと見ることはないのだけれど、先日会った造り手の顔が浮かび、お会計してもらっているわずかな間に目で追いかけてみることにした。ものの数秒で彼の顔を見つけることができた。
なんてことだ。ここに通い続けている間、僕はずっと彼と会っていたのだ。
思わず写真を指して「彼と先日お会いしました」と店主に伝えると、店主は朗らかに「あぁ。ちょうど今日彼のワインが入ったところですよ」と入り口に積まれているダンボールを指差した。見れば、彼のワイナリーの名前がプリントされたダンボールがあった。
後で店のSNSを遡ってみたら、ちょうど1年くらい前に彼の造ったワインを紹介している投稿が見つかった。見たことがあるエチケットであるのはやはり間違いなかったのだ。
取材前に彼とお店の関係に気付いていればもっと盛り上がれたのに…と自身の記憶力の曖昧さを呪いつつちょっと残念な気持ちが持ち上がってきたものの、こうして意図しないつながりが生まれたことへの嬉しさがふつふつと湧き上がってきた。
ついでに言えば、すぐ売り切れてしまう幻のような商品だと思っていたものが、手に入る可能性が一気に上がったことで、浮き足立つような気持ちにもなった。
仕事でつながった方からお誘いいただき飲み会に参加することになった。当日飲み会会場に行けば、いわゆる「業界の人」たち10名近くが集まっていた。
左隣になった方の出自を聞けば、数年前、僕と一緒にプロジェクトを回していた外部パートナーの方の新卒時の元上司ということがわかった。そこからしばらくは、その方との懐かしい思い出を肴にして酒が進むことになった。
右隣になった方の仕事内容を聞けば、最近よく仕事をしている他部署の社員から相談を受けているらしいことがわかった。そこからしばらくは、現在僕が抱えている重たい課題やら悩みなんかを打ち明けつつ壁打ちをさせてもらう時間になった(当然ながら酒も進んだ)。
旧い知り合いにはすぐに連絡し、今度飲みにいくことになった。他部署の社員とは「次」に向けた打ち合わせをすることになった。
たったひとつの飲み会で、「旧きを温め新しきを知る」ようなことになった。
年齢を重ねるごとに、こんな風にして導かれるようにつながる機会が増えてきた気がする。
新しい出会いの横には懐かしい顔が佇んでいたり、いつかすれ違った人とふとしたきっかけで「出会い直す」ようなこともある。
その都度ありきたりにも「世界の狭さ」を思い知ることになるのだけど、同時に、年齢を重ねてきたからこそ感じるのは、このような「出会い直し」からこぼれ落ちていく人たちの方が圧倒的に多いんだろうな、ということだ。
昨年1年間は本当に多くの方に会った。家の机に積まれた名刺の山がそれを物語っている。年末の大掃除で見返してみたが、名前と顔が一致する人がほとんどいなかった(あまりに多くて10枚くらいで諦めたのだけれど)。昨年1年間で交わした「はじめまして」のうち、数年後に「出会い直す」ことになる人は果たしているのだろうか(いや、ほとんどいない)、ということもわかってしまう年齢になった。
とは言え「出会い直し」に何か運命的なものを感じるかと言われればそうでもない。それもたまたまだ。どうせその出会い直しもいつかまたこぼれ落ちていく。それもなんとなくわかる。まぁでもそれはそれでいいじゃないか、とも思う。「一期一会」という言葉になにか特別なものやセンチメンタルな響きを感じるまでもなく、実際的なこととして肌に馴染むような年齢になった。
そんなことを思っていた矢先、年明けとともに大きな地震のニュースが流れてきた。旅行で行ったことがある場所だ。いつか見た景色が大きな災害に見舞われている。きっとそこには名も知らぬ出会った人たちも含まれているはずだ。そのことを思うと、今偶然にもつなぎとめられている人たちとのつながりの頼りなさを思い知ることになった。
つながりがプツッと途切れる可能性があるという事実は「いつかはこぼれ落ちるだろう」とのんびり構えていた僕を狼狽えさせるには十分だった。
それでもなにかできることがあるかと言えば、そんなに多くはないだろう。
きっとこれからも、これまで通りなにかに導かれるように無尽蔵に出会いを繰り返していくと思うし、あいも変わらず関係はこぼれ落ちていくのだろう。
でも、と思う。
「狼狽えた自分がいた」という事実は手元に置いておきたい。いつかどこかでそれが顔を出すときにはじめて、次の「たまたま」を変えるような気がするから。
文・写真:Takapi