追体験

近所の緑道には小さな川が流れている。散歩が気持ちいい季節になるとよく出かけるのだが、その理由のひとつに、その川に棲むザリガニや小さい魚たちの存在がある。管理がとてもよく行き届いていて、川の水はとても綺麗で、上から覗き込めば小さな魚やザリガニが生息していることがはっきりとわかる。

近所に住んでいるであろう子どもたちの嬌声が聞こえる。川に系を垂らしてザリガニ釣りをしている子どもや、虫網で小魚をすくっている子どももいる。子どもが持っている虫籠の中には釣ったばかりのザリガニがいて、その光景ははるか30年以上前の記憶を呼び戻してくれる。

子どもの頃は、ありふれた片田舎の幼少期よろしくカブトムシ採りやザリガニ釣りに夢中になっていた。今住んでいる東京の都心にあって、同じような光景を目にするとは思いもしなかった。だからか、余計に緑道を歩き川の中を覗きザリガニの存在を認めるとザリガニ釣りをしたい欲がフツフツと湧いてくるのだ。ただ大の大人がひとり糸を垂らしているのはかなり気が引ける。子どもたちにも引かれそうだ。そんなことで、ここ数年は散歩の度に川を覗き込んでは、ザリガニの存在をたしかめる日々が続いていた。

しかしチャンスはやってきた。娘も2歳になり、ある程度自由に歩けるようにもなり、動物や昆虫に興味を持っている今ならザリガニ釣りをしても娘は喜んでくれるはずだ。というわけで、とある晴れた休日(つまりは絶好のザリガニ日和)に、ザリガニ釣りを決行することにした。

割り箸に糸をくくりつけ、糸の先っぽには、いつぞやお土産でもらった干物の残りをギュッと結びつけ、はやる気持ちをおさえながら緑道に出かけた。

川を覗き込めば案の定、ザリガニがたくさんいる。娘に「ザリガニいるねぇ」などと声をかけながら、用意していたお手製の釣竿の糸を垂らす。

糸を垂らしてものの数秒のうちに、近くにいたザリガニが寄ってきてすぐに干物に食いついた。ハサミでガシッと干物を掴んだことを見計らってそうっと引き上げる。あっという間に釣れた。案外憶えているものだ。少し拍子抜けするくらいの30年前の追体験だった。それでも気持ちの昂りは抑えられず、「おお」とか「ああ」とか声が出た(もしかしたら「ふふ」と言っていたかもしれない)。隣の妻は「ほんとに釣れるのね」と驚きながらも楽しそうな表情だ。娘はといえば、その一連の行動がまだよくわからないのか、ポカンとしている。

引き上げたザリガニは両のハサミを奮い上げ威嚇をしている。後ろから胴体を持てばハサミに挟まれない。そっと胴体を持つ。ハサミをぐるぐると振り回すザリガニ。その勢いに少し驚いたがすぐに慣れた。そうそう、こんな感じだった、とまた追体験をした格好だった。胴体を持ち、ザリガニを眺めながら、しばらく感傷に浸る。娘にザリガニを近づけると、若干ビクッとしながらもニヤっとした表情を見せた。「はじめて」に出会う時のいい表情だった。

しばらく堪能した後は、ザリガニを川に戻し、また違うスポットに移っては糸を垂らすことにした。その後も順調に数匹釣れたが、3箇所目くらいのタイミングで娘が完全に飽きてグズリ出したので、この日はここで終了することにした。

娘が少しずつ大きくなってきて、こんな追体験が増えてきた。
近所の大きな公園に散歩に行く度に、小学生の頃「鳥博士」と呼ばれた血が騒ぎ、鳥の声が聞こえると「これはヒヨドリだよ」と教えたり、珍しくコゲラ(キツツキ)なんかを見つけると娘の手を引いて木の近くまで近づいたりして一緒に眺めたりしている(娘はあまり興味がないかもしれないが)。動物園や水族館に行っても、この「追体験」が顔を出してきては、人生2度目のワクワクを楽しんでいるこの頃である。

4月から体制が変わった職場では、これまで属人的にこなしてきた仕事の棚卸しが必要になってきている。とは言え、感覚的にやってきた身としては、この棚卸しが難しい。それに言葉にして教えるということが、これまで自身がコツコツやってきたことを矮小化してしまうような気がして、なんとも気分が乗らないのだ(こんなことを考えてる時点で社会人としていかがなものだと思うが)。

それはそれとして、実際に現場では徐々にメンバーに任せるシーンが増えてきた。「やり方」をうまく棚卸しできていないが故に、手取り足取り教えることができないから、まずは自由にやらせることにしている(ひどいマネジメントだ)。

なかば外の立ち位置から彼らの行動を見ていれば、当然口を出したくなることは出てくるわけで、その度に「こうしたら?」と伝えるのだけど、その教えの中にこれまでやってきた自身の振る舞い方やこだわりなんかに気づいたりするから面白い。彼らの行動を通して自らの仕事ぶりを追体験しているようなもので、この追体験をもって思いもよらず棚卸しができ始めている。

もうひとつこの追体験の恩恵がある。それはこれまで自分がやってきたことを少しだけ認めてあげることができたことだ。闇雲にやってきたここ数年の中に、自分ならではの工夫が見えてきたりして、案外ちゃんと仕事してるんだなと、少しだけ安心することができた。ようやくできた、と言ってもいい。それはここ数年の中ではじめて起きた感情でもある。そのことが少しだけ嬉しい。

とはいえ、そんな安心をよそに、次の日には新しい不安を呼び寄せてくるのだろうけれど。

好むと好まざるに関わらず、年齢を重ねるほど追体験の数は増えていく。追体験の追体験だって出てくるだろう。それは過去を見つめる眼差しそのものだ。いくぶん郷愁感を伴うその眼差しの中には、できればワクワクや安心が潜んでいてほしい。落胆したり後悔するような追体験からは距離を置いておきたいところだ。

そんなことを思うと、巷に流れる常套句「悔いなく今を生きろ」の本当のところの意味合いが見えてくるような気もする。いずれの「追体験」のために今できることは何か、そしてよい追体験をしてもらうために後進に対してできることは何か、これから生きる上でのひとつの(大きな)テーマのような気がする。

文・写真:Takapi